バンビのあくび

適度にテキトーに生きたいと思っている平民のブログです。

20240326


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気圧のせいか一日中頭がいたい。

早く帰宅しようと思っていたが、気になる案件や呼び止められる件数が多く、気がついたら11時間労働だった。あまり遅い時間まで働いていると夕食を作る気力がなくなるため、最近は朝早く出社している。

雨が降っていた。吸い込む空気が湿度を帯びている。靴についた汚れを気にしながら車に乗り込む。エンジンをかけるとBluetoothで繋いでいたスマホの音楽が流れ出す。ゆっくり前進し、右折したあと左折する。また、左折をすると直線に入るのでタンブラーに入れた珈琲を一口飲む。家で飲めばいいと思うのだが、車で飲む一口がなんだか美味しく感じる。おそらくは流れる景色がこの珈琲を美味しくさせているのだと思う。音はある。けれど静かだ。誰も大声を出すような時間ではなく寝起きで疲れたような空気が街を包んでいる。重い。冷たい。苦しい。

それでも運転を続け、坂道に差し掛かると少しだけやる気が出てくる。この坂を上ったら今日は違う景色がみえるだろうか。なんて、思うことはなく、いつもと同じような日がやってくるのだと覚悟する。

 

お風呂に入っても頭がいたい。

少しだけ時間を感じたくてココアを作ることにした。小鍋にココアと砂糖、少量の水を入れ、良く練りつつ火にかける。ココアと砂糖が溶けたところで牛乳を注ぐ。カカオの茶色が少しだけ白っぽくなって甘い香りが漂ってくる。ひたすらスプーンで混ぜて沸騰直前で火を止めた。甘さの奥に苦味があるココアが美味しい。そういえば娘がホットミルクを作って欲しいと言っていた。娘は牛乳をほとんど飲まないのだが、時々ホットミルクを作って欲しいと言ってくる。それは娘が幼い頃に私が作ってあげた少しだけ砂糖を入れたホットミルク。作ってあげたことなんて全く記憶になかったのだけれど、それがとても美味しかったのだと娘は話す。

寝る前のささやかな時間の話。

20240324

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何かを書き出せばそこから文字が流れていく。そう理解していても書く意欲がわかず、しばらく景色を眺めていた。

書くことを生業にしているわけではないので、ムリに書く必要もない。ただ溢れた感情と言葉の行き場を失ったときに書き留める場所があればそれでいいのだった。コップに注いだ水が表面張力をも越えて溢れだしたときと同様にしばらく時間を置くと自然に言葉が溢れていくのだから。

踊っている人々を眺め、雑踏に紛れる。映画ポスターをじっくり読んでいるひとの後ろをそっと通りすぎる。工事現場作業の合間にコンビニに買い出しに来たであろう作業服の人がペットボトルを何本も抱えている背中を見つつレジに並ぶ。ギターケースを担いでスマホをいじる男性。週末に駅チカの居酒屋で楽しそうに談笑しているサラリーマン。

私とすれ違った人々にはそれぞれの生活があり、おそらく以後も私とは関わることがないだろう。もしかしたらこのときが人生の中でその人といちばん近づいた一瞬だったかもしれない。

数年前、本などを通して知り合った方がもうすぐ遠方へ引っ越しをする。簡単な言葉が用意できれば良いのだろうけれど、何かそういう言葉ではないような気もして考えを巡らせている。もしかしたら誰かがさることに対する感傷が私は薄いのかもしれないと考えたりもする。

ずっと一緒に居てくれると言った人はことごとく去り、人は皆私を通りすぎていくものだと思っている節がある。それが流れなのだとしたら、表面だけの関係でありたいと考えてしまう。近づくのはこわい。どうせ去っていくのなら近づきたくはない。

「ずっと」なんてないのだと理解していても「ずっと」なんて言葉を持ち出されたら期待してしまう自分がきらいだ。

それでもだれかが発する言葉を信じて生きていたいと思ってしまう。ある種の自傷行為かもしれないが、やはり、未来に希望は持っていたいと強く願う私がいる。

生き方としてはおそらくド下手だろうけれど、私は自分の生き方がきらいではない。

ぎこちない動きで


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最近はずっと暗くなってから帰宅していたため、久しぶりの夕暮れ空を目にしたら悲しさと虚しさでやるせなくなった。

20年くらい「季節を感じられる心のゆとりは持っていたい」とさまざまな場所で発しているが、そのゆとりすら持てていなかった日々は何処へ消えていってしまったのだろう。

おそらく土から顔を出した青い草にも気づかず、あの人の顔も思い出せなくなるのだ。

数年前、本当に好きな人の顔は思い出せないと言う文章を書いた気がする。楽しい時間をともに過ごし、その余韻で心が満たされると相手の顔はぼんやりとしか思い出せなくなる。顔よりも時間と空気と手触りが鮮烈に残り、それだけで十分になってしまうのだ。今はすぐに写真を撮ったりするのかもしれないが、あの相手の顔が思い出せそうで思い出せずに考え続ける時間も尊かった。

確かにそこに存在していた身近な相手の顔が一番思い出せないことに笑いそうになるが、近すぎると見えないのだとおもう。

見えなすぎて、近いひとへの敬意が薄れ、多くの失敗を繰り返すのかもしれない。

私が私を嫌うとき、誰かにはかばってもらいたい。私が存在していることを肯定してもらいたい。他人に何かを委ねたり、期待することはできるだけ止めているけれど、時に全てを委ねたくなる。

私が抱えている重たい荷物を置き去りにして、軽やかに舞っていたいと思ってしまう。現実は重たい荷物を背負ったまま、ぎこちなく足を動かしているだけに過ぎないが、その姿を笑うひとからは離れていたい。

今度はあなたを誘うから一緒に舞って下さい。