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バンビのあくび

適度にテキトーに生きたいと思っている平民のブログです。

ファッジが甘くて泣けてくる

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桜の花が満開になったとたん降りだした雨は花見客を蹴散らそうと企んでいるのかと思うほど、まだ止む気配を見せない。

私の運気が上がったり下がったりするのと連動するように、空の様子も晴れたり雨降りだったりしていて、「なんなの、私の心を読んでるの!とんでもない空だ!」と空に向かって呼びかけてはみたものの、バカらしくてクスッと笑う。これだけ私の心が読めるなら、私と相性がいいのかもしれないねなんて都合よく思いながら、炭酸水をぐいっと飲んだ。

 

新学年をスタートさせたこども達は先生や友達の様子を聞かずとも報告してくる。おそらく新しい出会いと発見を誰かに聞かせたいのだろう。私はぽんぽん弾みながら転がってくる言葉の中に、不安な部分がないかを探しながら聞いている。

「○○ちゃんと一緒だったー」

「あの先生、△△が趣味らしいよ」

「クラスの女子の一部がちょっとだけ…アレなんだよね」

毎年のクラス替えは新鮮な空気をもたらすけれど、スタート時は神経をすり減らす。すり減った神経を少しでも和らげるのは春ののんびりした気候であり、私であり、自分自身でもあると思う。

 

運気が低迷しているなって感じたりもするけど、それも今までの行いが招いているのかもしれないし、私がポジティブ思考でわわわーーっつって乗り切れるのか試されているのかもしれない。

だいじょうぶ。立てているうちはだいじょうぶ。

何を支えにするかは都度異なるけれど、思うだけでほっとするようなモノが傍らにあるとだいぶ心強い。詩集であったり、かわいいマスキングテープであったり、変わったレターセットであったり。

最近、それらのモノも大事だけど、どういった背景で私の手に入ったかも重要な要素であるように思えてきた。誰かからもらったとか、好きなお店で購入したとかそういうことだ。

あの人に薦められてみた映画がさらに美しくみえるように、本が驚くほどおもしろく感じるように、私の周りの誰かは間接的に私を支えていてくれる。

 

この先、私はひとりぼっちだと思うことはないような気がする。

繋がりを感じとることができる私はひとりぼっちだと思うことはないような気がする。

鼻で笑っちゃうくらいちっぽけな強さでもないよりはあった方が良いに決まってる。

 

さて、そろそろ晴れてくれないかな。

洗濯物が山積みだ。

 

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『ペーパーボーイ』を読みました ~YAらしい清々しい気分になりました

『ペーパーボーイ』を読んだ。

読もう!と思いながら、後回しにして忘れかけた頃、日本翻訳大賞の最終選考対象作の中に「ペーパーボーイ」をみつけて、思い出したのだ。

1959年,メンフィス.ぼくは夏休みのあいだ,友達のラットに代わって新聞配達を引き受けることになった.すぐにどもってしまうせいで人と話すのは緊張する.でも大人の世界へ一歩踏み出したその夏は,思いもよらない個性的な人たちとの出会いと,そして事件が待っていた.

吃音症の少年が様々な人と出会い成長する話なのだが、少年と出てくる大人たちとの関わりは、何本ものからまった糸をひとつひとつほどいていかねばならないくらい、じっくり一つ一つ私自身の中へ落とし込んでいく必要に迫られた。

少年の家にいるお手伝いさんのマームは黒人女性で、この時代の人種差別について考えずにはいられなかったし、配達先のワージントンさんの色っぽさと不安定さが気になってしかたなかったし、R.Tのような凶悪な大人の存在も忘れてはいけないと思った。それからちょっと風変わりなスピロさんを私は気に入ってしまった。私がこどもだったとして、スピロさんのような大人と接したら、少年のようにするする受け入れられるかといえば怪しいところだが、スピロさんはこれまで少年が接した大人と違う部分があるからこそ、少年はまたひとつ、大人になれたのだと思えた。こどもの頃に一度は思ったことのある「いつまでもこども扱いしないでよ!」って気持ちに通じる何かがそこにあるように思った。今まで誰にも聞けなかった質問をぶつけられる大人の存在は大きい。

大人との関りでもうひとつ忘れてはならないのは、少年と父親の関係である。少年は中盤で父親と血縁関係がないことを知り動揺するのだが、終盤で自分の気持ちを明確にし晴れやかな雰囲気となっているのが清々しくて良かった。それも父親から自分へ向かって愛情が注がれていることを感じ取れているからなのだろう。

 

「大切なのはなにを言うかで、どう言うかじゃないんだ」

吃音症の少年が放つ、この言葉の意味は大きい。

 

YA作品らしい読後の爽やかさと希望ある雰囲気がとっても気持ち良かった。

続編も執筆中らしいので、そちらも楽しみに待ちたいと思う。

***

原田勝さんのブログにも書かれているが、この小説の原作にカンマがないため、翻訳もそれに踏襲し、ほぼ読点がない。にも関わらず、読みづらさを感じないですらすら読めるのは原田さんの訳の良さなのだろうと思う。すごい。

 

haradamasaru.hatenablog.com

 

もうひとつ、原田さんのブログで知ったのだけど、ワシントン州タコマの小学5年生が、この小説をもとにして演じているビデオが YouTube でみられるのだ。これが、なんだか面白い。小説を読んだあとに見るとさらに面白い。ワージントンさん役、5年生なのにこの色気はどこから出てくるの?わけてほしい。

『ペーパーボーイ』映画化か!? - 翻訳者の部屋から

 


Paperboy 90-Second Newbery 2017

 

ペーパーボーイ (STAMP BOOKS)

ペーパーボーイ (STAMP BOOKS)

 

 

***

岩波書店のSTAMP BOOOKSシリーズの本を読むのは「さよならを待つふたりのために」「バイバイ、サマータイム」「コミック密売人」に続いて4作品目だったけれど、どれもはずれがなく面白いので、他の作品も読んでみるつもりです。このシリーズ、本当に面白いです!

 

レモンスカッシュ

仕事をしている人の手に惹かれるようになったのはいつ頃からか考えてみたのだけど、おそらく国鉄時代の駅員さんがハサミを器用に操り、硬い切符を次々にパチンパチンと切っていた時のような気がする。

母が東京へ買い物へ行くとき、私も度々連れて行ってもらった。母が切符を買っている横で私はいつも改札口にいる駅員さんをボヤッと眺めていた。やや暇そうな面持ちで手にしたハサミをカチカチと動かしていた駅員さんは私が切符を差し出すと目線を下に向け、持っていたハサミでパチンと小気味よい音を立てながら切ってくれたのだった。長方形の硬い切符にできたハサミのあとは、触るとでこぼこしていて気持ちが良かった。ずっと触っていたかったけれど、切符を手で持っているとなくしまいそうだったので、私はバッグに切符をしまった。電車に揺られ、外の景色を眺めながら、時折、バッグの中に手を入れ切符を触るのが好きだった。

東京に着くと母は書店へ向かった。母の目的は専門書なので、私はいつも専門書の階をふらふらしながら、その中でも面白そうなものを見つけて歩いた。変わった表紙やタイトルの本は中身がわからなくても手に取ってみたりしていた。だが、私の手には大きすぎて重たいといつも思っていたのだった。

母は用事がすむとたいてい喫茶店へ連れて行ってくれた。私は小学校の低学年頃まではいつもフルーツパフェを頼んでいた。むしろ、フルーツパフェを食べることが私が東京へついて行く一番の目的だった。地元では滅多に食べないフルーツのたくさん乗ったフルーツパフェはとても豪華で、「これが、東京か!」と幼心に思ったものである。あるとき、ふと、フルーツパフェじゃないものを頼んでみたくなった。メニューを隅から隅まで眺め、私が選んだのはレモンスカッシュだった。

「フルーツパフェじゃなくていいの?」

母は私に問いかけたが、私のその時の気分はレモンスカッシュだった。とはいっても、レモンスカッシュを飲んだことがあるわけではなく「レモン味の飴も好きだし、炭酸も好きだし、上に赤いサクランボも乗ってるから嫌いなわけない!」という私の勝手な思いからだった。運ばれてきたレモンスカッシュはものすごく薄い黄色で、レモンの輪切りと赤いサクランボが乗っかっていた。私はストローに軽く手を添え、すぅっと薄い黄色の液体を吸い込んだ。

おいしかった。

炭酸のしゅわしゅわとともにやってくる酸っぱさが目が覚めるようではあったけれど、おいしいと思った。半分ぐらい飲んだところでサクランボを口に入れた。サクランボを食べた後に飲むレモンスカッシュは一口目よりもっともっと酸っぱかった。

それからは喫茶店へいくたび、レモンスカッシュを頼んだ。何度か頼んでいるうちに気がついたのだが、レモンスカッシュの味は喫茶店によってびっくりするくらい違っていた。私がはじめてレモンスカッシュを飲んだ喫茶店は甘さも酸っぱさもちょうどよかったけれど、別の喫茶店は甘すぎたり、まったく甘くなかったりした。サクランボやレモンが乗っているか否かも店によって違っていた。私が好きなレモンスカッシュの味を求めるのはなかなか難しく(お供で東京へ行っているので選ぶ権利もあまりない)、レモンスカッシュは好きだけどなかなか困ったものだと思った。

「そうだ、自分でレモンスカッシュを作ろう!」

ある日、そう思った。

インターネットのある時代ではなかったので、私は自分が飲んだレモンスカッシュから推測される材料をスーパーへ買いに行った。レモンと炭酸水とサクランボの缶詰。砂糖は家にあるから買わなかった。サクランボは私が思うレモンスカシュには必ず必要なアイテムだった。

帰宅後、早速レモンスカッシュ作りに取りかかった。まずはレモンを半分に切り、絞り器の上でぐいっと回した。レモンの果汁がじゅわじゅわ出てきて、目がしょぼしょぼした。残りの半分のレモンを少しだけ切って、レモンの輪切りも作った。次は食器棚から一番格好の良いグラス持ってきた。グラスにレモンの絞り汁を入れてから、砂糖を入れ、炭酸水をゆっくり注いだ。マドラーで軽く混ぜ、一口飲んでみた。すっぱくて、甘くなくて全然おいしくなかった。大失敗だ。母に失敗した話をしたら「砂糖じゃなくてこれをいれたら?」とガムシロップを渡された。再チャレンジ。さっきは絞ったレモン汁を全部入れたけど、酸っぱすぎたので少しずつ調整していくことにした。そこにガムシロップ。そして炭酸水をゆっくり注ぎ、マドラーでくるくると混ぜた。一口飲んでみると、さっきより美味しかった。レモンの輪切りと真っ赤なサクランボを上に乗せ、上機嫌でレモンスカッシュを飲み干した。

しばらくの間、私はレモンスカッシュづくりにハマった。レモンの絞り汁、ガムシロップ、炭酸水の量を調整しつつ、私が好きな味に近づけた。だが、初めて作った頃と比べればだいぶ美味しく作れるようになったとは思ったけど、あの、喫茶店の味にはならないなと思った。だから、「きっと喫茶店のレモンスカッシュは特別な何かが入っているのだ」という結論に至ったのだった。

 

今でもあの喫茶店のレモンスカッシュには何が入っていたのか気になることがある。けれど、本当は特に変わったものは入っていなかったのかもしれないと大人になってからは思ったりもしている。

あの場所で、あの空気の中で飲んだレモンスカッシュだから特別な味がしたのではないか、そう考えると私はほんの少し体があたたかくなったような気がして嬉しくなるのだ。

記憶は不確かであり、もう同じ味を味わうことはなく、甘くないのも甘すぎたのもすべて思い出へと変わっていった。

また、レモンスカッシュを作ろうかな。