バンビのあくび

適度にテキトーに生きたいと思っている平民のブログです。

積み重ねる

前に進んで後ろに下がることを繰り返している。

イメージとしては前に大きく一歩進んで後ろにちょこっと一歩下がってるので、結果的に前に進んでいるのだと思う。

関係ないかもしれないが、子どもの頃は後ろ向きに走るのがめちゃくちゃ速かったので、後ろに進むことも楽しいことだと私には刷り込まれている。


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花屋さんであんまり見かけない花を見たら、名前を聞くようになった。ただの興味でもあるが、そこから話が弾むことがあり、その一連の流れが好きなのだ。今回購入したのは「カンガルーポー」でカンガルーの前足に似ていることからその名がついたらしい。娘は「バナナ!」と言っていた。黄色に少し緑がかっているあたりが確かにバナナに見える。変わった花を部屋に飾り「花を買ったの」と子どもに話す。原産地から推測できる茎が太い理由や名前の由来を話すだけでも新しい空気が入り込んでくる。


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バナナと言えば、先日スーパーのオープニングセールでバナナが安かったので大きな房で買ってきた。冷凍しても良かったのだが、久しぶりにバナナケーキを焼くことにした。今使っているオーブンでケーキを焼くのが初めてだったので少し焼きすぎた。おそらくレシピに書かれている時間より数分短いくらいがちょうどいいのだろう。

パウンドケーキを焼くことは何も考えずに作業に集中できるので好きだ。ただ、焼いたあとに食べてくれる人があまりいなくて困ってしまう。今回はちょうどビートルズの音楽をきく会があったので、小さめに切り分けて持って行った。たくさん食べてくれる方がいたので、余った分も差し上げた。食べてもらえるのは嬉しいことだ。

 

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先日、メリーゴーランドで寺尾紗穂さんのライブがあったので行ってきた。ライブが楽しみすぎてお風呂でずっと寺尾さんの曲を聴き、「彗星の孤独」というエッセイを付箋を貼りながら大事に読んだ。

ライブはいちばん前で見た。ほんの数メートル先にピアノを弾く寺尾さんがいた。歌いだすと鳥肌がたつくらい心に染みてしまい、ずっと涙が止まらなかった。泣こうとして泣いているのではない。頬を伝って流れてきてしまうのだ。涙を拭くことも忘れ、音に酔いしれていたら頬がかゆくなったので涙はすぐに拭くものだと思った。負の感情を流してくれる涙が心地よく、ぽつりぽつり静かに話される内容も楽しく、今の私が見るべきものだったと思えた。

ライブは楽しいだけでなく、私に複雑な感情も呼び込んでしまったため、払拭すべく勝手ながら寺尾さんにライブや本の感想、果てには現在の自分の身の上話までしたためたメールを送った。なんとなくこんな人がいるよって知ってほしかったのかもしれない。数日後、驚くべきことに返信を頂いた。返信メールに書かれたひとつひとつの言葉が私に宛ててくれたものだと明確にわかり、涙が溢れてきてしまった。見ず知らずの私に寄り添って下さり、応援しているとまで書いてくださった寺尾さんの言葉と歌を抱きしめていたいと思った。

 

寺尾紗穂 - 楕円の夢

「楕円の夢」は好きな曲だったが、寺尾さんと直接やりとりさせてもらえたことで、特別な曲に変わった。

私は寺尾さんに最初にメールしたとき、最後にこう書いた。

 

また、三重にいらしてください。

そのときはもっと強くなってもっと笑える自分でいたいと思います。

 

そうありたい。

思うだけではなく現実のものとできるように、毎日を積み重ねていく。

 

 

彗星の孤独

彗星の孤独

 

 

  

 

生き物であること

体にしこりのようなものがあるように感じたけれど、大きくもないし痛くもないのでしばらく放置していたら、ある日、むくむく腫れてきてあっという間にピンポン玉ぐらいの大きさになっていた。皮膚はしこりの大きさに合わせようとしたのか引っ張られてつるっとした表面になっており、触ると熱を帯びているのがわかった。じんじんとした痛みも伴ったため、慌てて皮膚科へ駆け込んだ。医師はは患部を見ると「あー、これは……」とどうなってるともわからない声を出し、ちょっと処置しますねと続けた。

いたい!あまりにも腫れていたため触れるだけでも痛かった患部に医師は針で穴をあけていた。ぶす。ぶす。針を刺す痛みと患部を押して膿を出していると思われる処置に私は自分の髪の毛をぎゅっと掴んで、うぅぅ…と声を出した。

「痛いよね…痛いよね…」

医師も看護師さんも優しいのだが、あまりの痛みに目から涙がぽろぽろこぼれてきた。ガーゼを貼ってもらい、流れる涙を拭いながら話を聞き、薬を手にして帰路についた。

じんじんとした痛みはなくならず、腫れもたいしてひいていなかったので歩くときはやや前屈みで歩いた。お風呂を禁止されたため、シャワーを浴びようと服を脱いだときにガーゼをゆっくりはがした。ガーゼにも患部にもどろっとした膿が張り付いていた。私が量に驚いてフリーズしているその間も膿は私の体から排出されていた。力を加減して患部を押してみた。どろどろした膿は押しても押しても流れてきた。私の体全体が膿に乗っ取られたのではないかと思うぐらい止まらなかった。ふと、そのときに自分の生を感じた。膿とわずかに出た血と粘液が混ざり合って垂れていくさまに自分が生き物であることを実感した。

温度を感じる液体が自分の体から流れ、生を感じることにリストカットを思った。先日読んでいた本にリストカットの場面があったからそういう思考回路になっていたのだろう。

中学生の時に席が前後だったことから仲良くなったアイちゃんは入学直後は明るくて面白い子であると認識していたが、ある時からリストカットを繰り返していた。話を聞くと小学校卒業時点で両親が離婚し、中学校入学を機に名字が変わったとのことだった。新しいお父さんもおり、関係も良好であったようだが離れて暮らす実父にも会いたいと繰り返し言っていた。アイちゃんが辛いだろうことは理解できたが、温室育ちの私にはアイちゃんが心に抱える不安や葛藤まではよくわからなかった。ただ日に日に増えていく手首の傷が痛々しく見ていることが出来なかった。傷も癒えぬうちにまた傷が増える。わざわざ自らを痛めて何があるのだろうとそのときは思っていた。私は痛いことが苦手なので今でもその疑問は残ったままであるが、痛みを伴い、血が流れることは可視化できる「生」なのかもしれない。その生きている実感に不安が少し払拭されるのかもしれない。

そうであるならば、また違ったカタチで「生」を感じられる方法もあるのではないか。

ずっと何十年も考えているけれど、何がその方法なのか答えが出せずにいる。

私はアイちゃんと笑って廊下を走って先生に怒られている時間が好きだった。先生の物まねをして笑わせてくれるアイちゃんが好きだった。オカルト好きで13日の金曜日を気にする変わったアイちゃんも好きだった。

アイちゃんは今、どこかで笑っているのだろうか。

笑っていてくれたら良いと思う。

笑っていなくても生きていてくれたら良いと思う。

そう思う私のエゴを今日は許してほしい。

 

 

20191118 ~準備

何日か書くことをサボっていたらどこから書いて良いのかわからなくなった。この間に一箱古本市に出店し、寺尾紗穂さんのライブへ行き、行きたかった雑貨屋poeにも行き、本の会にも参加した。

こたつを出して暖かさを感じ、私が2週間前に購入したゴジュウカラの置物に息子が今頃気づいて笑った。

「この鳥、いつからいた?」

「え?前に部屋に入ってきちゃった鳥の剥製だよ」

顔色を変えずに鳥の剥製と言った娘が面白かった。私も「そうそう!」と乗っかってみたけれど、それだけで部屋の空気がオレンジ色になった。

日が暮れるのが早くなり、カーテンを閉める時間も早くなった。

外との隔たりを思ったら途端に寂しくなった。

広げた手に見えない宝石を乗せる。

目を瞑り、ぎゅっと握りしめる。

ひとつ。またひとつ。

手から落としてしまった何かは忘れてしまおう。

今、ぎゅっと握りしめているモノを落とさないように大事にしよう。

 

***


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石井睦美さんの『愛しいひとにさよならを言う』を読んだ。

いまでもチチのことを考える。

 授業が始まる直前の教室のざわめきが途切れる一瞬や、授業が終わって帰る電車のなかで、わたしはチチを思い出す。

冒頭で語られるチチについてはずんずん読み進めてもなかなか出てこなくて心配になってしまったけれど、チチのインパクトが強いためなんだなと思った。歳の差がある女性の友情、親子の関係、出会いも別れも存分に味わえる切なくて心がきゅっとするお話だった。私は好き。それだけははっきりと言える。

表紙が酒井駒子さんのイラストだという理由だけで手に取ったけれど良いものを読んだ。

 

まだ積んでる本もあるし、本の会で興味を持った本もある。

長くなる夜への準備はできている。

心も体も少しずつ元気を取り戻しながら、また新しい出会いに期待しようと思った。

 

 

愛しいひとにさよならを言う (中公文庫)