バンビのあくび

適度にテキトーに生きたいと思っている平民のブログです。

メモメモ。

わかった気になるなよ、自分。

自分的メモな日記。
想像力を鍛えておく!いつか耳を傾けられるように。。

以下、哲学者である鷲田清一さんブログから引用したもの。

アイデンティティー(自分がだれであるかの根拠となるもの)とは
「自分が自分自身に語って聞かせる物語」だと言った人がいる。
R・D・レインという精神分析医だ。自分はだれの子か?
 自分は男女いずれの性に属しているか? 
自分は何をするためにここにいるのか? 
こういう問いが、人それぞれのアイデンティティーの核にある。
これらの一つでも答えが不明になったとき
わたしたちの存在は大きく揺らいでしまう。

 子に先立たれた人、回復不能な重い病に侵された人
事業に失敗した人、職を失った人……。
かれらがそうした理不尽な事実、
納得しがたい事実をまぎれもないこととして受け容(い)れるためには
自分をこれまで編んできた物語を別なかたちで語りなおさなければならない。
人生においては、そういう語りなおしが幾度も強いられる。
そこでは過去の記憶ですら、語りなおされざるをえない。
その意味で、これまでのわたしから別のわたしへの移行は
文字どおり命懸けである。
このたびの震災で、親や子をなくし、家や職を失った人びとは
こうした語りのゼロ点に、否応(いやおう)もなく差し戻された。

 こうした語りなおしのプロセスは、もちろん人それぞれに異なっている。
そしてその物語は、その人みずからが語りきらなければならない。
戦後六十数年経っても、戦争で受けた傷、
大切なだれかに死なれた事実をまだ受け容れられていない人がいるように
語りなおしのプロセスは、とてつもなく長いものになるかもしれない。

 語りなおしは苦しいプロセスである。
そもそも人はほんとうに苦しいときは押し黙る。
記憶を反芻(はんすう)することで
傷にさらに塩をまぶすようなことはしたくないからだ。
あの人が逝って自分が生き残ったのはなぜか
そういう問いにはたぶん答えがないと知っているから
つい問いを抑え込んでしまう。
だれかの前でようやっと口を開いても
体験していない人に言ってもわかるはずがないと口ごもってしまうし、
こんな言葉でちゃんと伝わっているのだろうかと
一語一語、感触を確かめながらしか話せないから
語りは往々にして途切れがちになる……。

 語りなおすというのは、自分の苦しみへの関係を変えようとすることだ。
だから当事者みずからが語りきらねばならない。
が、これはひどく苦しい過程なので、できればよき聞き役が要る。
マラソンの伴走者のような。

 けれども、語りなおしは沈黙をはさんで訥々(とつとつ)としかなされないために、
聴く者はひたすら待つということに耐えられず、つい言葉を迎えにゆく。
「あなたが言いたいのはこういうことじゃないの?」と。
言葉を呑み込みかけているときに、すらすらとした言葉を向けられれば、だれしもそれに飛びついてしまう。
他人がかわりに編むその物語が一条の光のように感じられてそれに乗る。
自分でとぎれとぎれに言葉を紡ぎだす苦しい時をまたぎ越して。
こうして、みずから語りきるはずのそのプロセスが横取りされてしまう。
言葉がこぼれ落ちるのを待ち、、しかと受け取るはずの者の
その前のめりの聴き方が、やっと出かけた言葉を逸(そ)らせてしまうのだ。
聴くというのは、思うほどたやすいことではない。

 いや、そもそもわたしたちはほんとうにしんどいときには
他人に言葉を預けないものだ。
だからいきなり「さあ、聴かせてください」と言う人には口を開かない。
黙り込んでいた子どもが、母親が炊事にとりかかると逆にぶつくさ語りはじめるように、言葉を待たずにただ横にいるだけの人の前でこそひとは口を開く。
そういうかかわりをまずはもちうることが大事である。
その意味では、聴くことよりも、傍らにいつづけることのほうが大事だといえる。


うむむっ。
私はマラソンの伴走者みたいになれるのか?
そこまで気のきいたことはできなかったとしても
傍らに居続けようとする気持ちはもっていたい。

逆を言えば、かたりなおしの際に傍らに居続けられないのであれば
いない方がいいとさえ思う。

そして自然体で。フラット、フラット。

2年ぐらい前の日記。
全くをもって進歩のない2年のような気がしないでもない。
だけど、心の片隅に思い続けていられるだけちょっぴり優しくなった気がするんだ。

スーパーカー『( Am I ) confusing you ?』

そんなにまだずっと先がはっきり見えてる訳じゃないけど
こんな僕にやれることはこれしかないって気がするんだ

って20代前半は思ったよね。あー懐かしい。