バンビのあくび

適度にテキトーに生きたいと思っている平民のブログです。

においを感じるとき

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玄関を出て車庫へ行く際に、隣家との間の通る。敷地内ではあるが、お隣の勝手口と物干し台の横を通るので、なんとなく足早に通り過ぎる。家の裏手なんてあんまり見られたくないだろうと思いながら。
今日も同じように下を向いて足早に歩いていたのだが、鼻にまとわりついたにおいで、思わず顔をあげた。それは柔軟剤のにおいだった。ひらひらと風に揺れた洗濯物から、わりと強めの柔軟剤のにおいが漂ってきた。
雨上がりで湿気を帯びていたからにおいが強かったのだろうか。いや、そんなことは関係ないのかな。
パタパタ揺れる赤ちゃん用のコンビ肌着を眺めながらそんなことを思った。
 
においは記憶と結びつく。
今回の件で私は隣家と柔軟剤のにおいが結びついた。
私の実家のお隣さんのにおいは、「にんにく」だった。
私の実家は祖母がにんにくを好まなかったので、にんにく料理が食卓にのぼることがなかった。お隣さんの換気扇がたまたまこちら向きだったのもあって、風に乗り、度々にんにくの香りが漂ってきた。ああ、お隣はにんにく料理だ。美味しそうなにおいだな。くんくん、鼻を動かしながら過ごしたこども時代を思い出す。
 
だが、においは良い記憶だけを留めるわけではない。
満員電車でぎゅうぎゅう押されながら、感じたにおい。
パーソナルスペースなんてあるはずもなく、それだけで少しの不快感と苛立ちを覚える。そこに輪をかけるように、漂ってくる個々から発せられたにおい。混じり合ってなんとも言えない息苦しさを感じた。もしかしたら、混じり合うなんてものではなく、其処彼処でにおいとにおいの戦いが勃発していたのかも知れない。それもまた記憶に留められた「におい」であることに間違いはない。
 
学生の頃、通学の満員電車で気分が悪くなったことがある。においもそうだが、おそらく酸欠である。近くの駅で途中下車し、ベンチに座っていたら「気分が悪いの?」と駅員さんに話しかけられた。そして駅員室で休ませてくれた。冬の寒い日であったが、駅員室の中はストーブが焚かれ、とても暖かかった。長椅子に横たわってしばらく目を閉じていると「どうしたの?」「酸欠みたいだね」「この時期の電車はなぁ…」駅員さん同士が話している声がした。ストーブの上に乗った薬缶がかたかた揺れる音を聞きながら、ここはなんて気持ちの良いにおいがするのだろうと思った。
 
そういえば、家の洗面所はなぜか私の実家のにおいがするらしい。
「らしい」というのは、私にはそれがわからないからだ。
息子と娘が顔を合わせながら「ここ、おばあちゃんの家のにおいがする!」と言うのだ。
「ああ、埼玉へ行きたくなった」2人で言い合っている姿は可愛らしいのだが、私がそのにおいを感じ取れないことが残念でならない。
 
息子は眠る時に花柄のタオルケットを愛用している。いわゆるライナスの毛布だ。
赤ちゃんの頃から使用しているだいぶくたびれた花柄のタオルケット。
それがないと眠れないとまでは言わないが、あれば安心するようだ。
クタクタの肌触りと彼自身が感じ取れる安心のにおいがするのであろう。
 
不快に感じない「におい」は安心のにおい。
安心するから「良いにおい」って感じているような気がする。
抱きしめられた時、なんとなく感じる居心地の良し悪し。
あれは本能で感じているんだ。
 
 
安らぐにおいがあなたから漂う時。
私は安心して助手席で眠ります。