バンビのあくび

適度にテキトーに生きたいと思っている平民のブログです。

No news is good news

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息子が浮かない表情である時に、体調が悪いの?と声をかけることがある。

大抵の場合は「ううん」「そんなことない」ぐらいの返事のため、ついつい続けて「もしも嫌がらせとかいじめられたりしたら私に言ってね」と言ってしまう。
 
「嫌なことはあるけどさ、別にいじめられてないよ」
「そう。まあ、嫌なことはあるよねー。中学生なんて言ったらウザったいことばかりだし。けど、もしもいじめられたらちゃんと言ってね」
「お母さんに言ったらどうにかなる問題?」
「どうとでもする」
「具体的には?」
「乗りこむ。蹴散らす。かき回す。」
「なにそれ!ちっとも具体的じゃないよ!」
 
息子は私の言葉に呆れ果てた。
それでも後からボソッと言ったんだ。
「ん、なんかあったら言うよ。お母さんぐらい適当な方が良いかも知れない」
 
息子が乳児の頃は「どう考えても今が一番大変だっ!」なんて右往左往しながら思っていたけれど、ちっとも「一番」ではなかったと今は思う。幼児、小学生、中学生と成長していく上で、乳児の頃とは違った悩みというか、頭を悩ますことに遭遇するからだ。息子の交友関係の広がり、周りの子達も含めた心の成長。幼い頃は男女も言動の違いもそこまで気にならなかったのに、だんだん違いに気づき、ぶつかり合ったり、自己をみつめなおすこども達。
思春期の頃の自分を思い出しても難しくて苦しかった記憶がいくつも浮かんでくるのだから、やはり難しい年頃なのだと言える。
では、この先は心配事は減るのだろうか?とざっくり未来を思い浮かべたら、どこまでも心配している自分がいてちょっぴり笑ってしまった。
 
私が「子」の立場である時は母に対して「いつまで心配してるのよ。もう私はおばさんなんだから!」と思ったりする。けれど、「親」の立場である時は「ずっと心配するよ。そりゃ。大事なこどもだもん」なんて思っちゃうんだから面倒なもんだ。
なんとも都合がよろしい話だけど、そんなもんよ。親なんて。
 
こどもが幸せであってほしいと願うから心配する。けれど、そこにはほんの一掴みぐらいの期待も混じっていたりする。「この子なら何とか乗り越えるんじゃないだろうか」みたいな淡い期待。過度な期待はお互い心臓に悪いので避けた方が無難だけど、淡い期待ぐらいいいじゃない。淡い恋心みたいでいいじゃない。
当たり前だけど、無関心であるならば心配なんてそもそもしない。だからさ、「心配されているうちが華かもなー!」って、適当発言しかしない私は思っているのだ。
 
数ヶ月、実家に電話をしていないことに先ほど気づいた。
実家は好きなのだが、変な愚痴とか言いたくないし、一度電話しちゃうと次の日もかけたくなったりするので、相応の用事がない限りは電話をしない。例外はこども達が「おばあちゃんに電話したーい」と言った時のみ。
そんな感じだからたまに電話をかけると「そろそろ電話がかかってくるんじゃないかと思ったわ!」なんて明るい声で母は言う。
母も母で私と同じようなタイプなのかあまり電話をかけてこない。母から電話がかかってくると「そろそろ電話がくると思ったよ」とデヘデヘ笑いながら私は言うのだ。
数ヶ月電話をかけてないんだから「そろそろ」になるでしょうよ!とは思うが、「そろそろ」の言葉は「便りがないのは元気な証拠」が隠語になってるような気がする。
 
最近、親が年老いてきたなって感じることがある。
これからくる便りには悪夢のような知らせも含まれるかも知れないなんて想像もする。
 
だから私は「便りがないのは元気な証拠」だと思わずにはいられないのだ。
 
 
 
 
 
(一人暮らしの場合はそうも言ってられないですけどね…)