バンビのあくび

適度にテキトーに生きたいと思っている平民のブログです。

20260531 条件ってなに?

レイトショーで『マテリアリスト 結婚の条件』を観た。結婚相談所で働くルーシーは仕事一筋のバリキャリなのだが、ある場所でひとりの男性と出会った。彼はルーシーが求めるさまざまな条件に合致する申し分のない男性で心が揺れる。一方、過去にケンカ別れをした元カレとの関係性が年月を経たことと、前述の彼が登場したことで変化していく。特段、驚くことのないラブコメだ。だが、出会いの多くがマッチングアプリとなっている今、ありきたりなストーリーも少し違って見えてきた。

相手と対面せず、自身が設けた条件に合致するひとを探すことはとても合理的で目的地への近道だと思うし、存分に活用すべきだとも思う。けれども私はそこにずっと怖さと言うか居心地の悪さを感じている。それが何かは娘と話をしているときに少しだけわかった。どんな話の流れかは忘れてしまったが、私が発言した際、「なんで自分が選ぶ側として話すの?相手から選ばれる視点はないの?」と問われたのだ。確かにそのとき私は自分の視点で話をしており、無意識に「選ぶ側」に立っていた。娘の指摘でなんで私は選ぶ側だと思ってたんだと恥ずかしくなった。相手からよく思われるように行動するって意味じゃなくて、相手より少し上の視点に立っている自分がイヤだと思ったのだ。

しばらくして、私には恋愛面での合理性はあんまり必要ないのだと考えた。もう少し、自分の気持ちに自由でいたいって子どもみたいに無邪気に思った。ただ、楽しいとか一緒に何かを見て嬉しいとか、ささやかな喜びの積み重ねができる時間を私は育みたいのだ。

『マテリアリスト〜』を観るとこれらの上手く言葉にできないものたちが溢れており、鑑賞後に良いラブコメを観たなあって気持ちが良くなり、足取りが軽くなった。

 

 

先日、XでやっていたPascoのイングリッシュマフィン詰め合わせセットプレゼントに当選した。家にイングリッシュマフィンが4袋もあるのでいろいろな料理を作っている。

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こちらがエッグベネディクト。

はじめて作ってみたのだが娘がとても気に入ったようでもう3回も作っている。娘は「こんなに美味しいものがあったなんて…!」とめちゃくちゃ興奮していた。とにかくオランデーズソースの味が好きらしい。付け合わせ野菜のドレッシングとしても優秀と話していたのでもう2回くらい作らないといけないかも知れない。

 

その他にもイングリッシュマフィン料理をしているので載せておく。

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20251203 わーっとなる

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娘は頭の中がわーっとなると、家を出てその辺をうろつき回る。小学生の頃からそうなのだが、さすがに中学生まではいわゆる補導されない時間に歩き回るように伝えていた。それでも頭がわーっとするのが深夜になることもあり、ちょうどいいバランスを保つのにやや思案した。高校生の年齢になってからはある程度寛容になり、自己判断の範囲で任せている。

親としての義務と放任の具合は常に頭の片隅に置いているけれど、適切な距離がどこなのか多くの親が頭を悩ませているに違いない。

私の場合、子がこの世に誕生してからずっと、この子が他人であることの意識が強かったため、私と同一に物事を考えることがほとんどない。

娘がSNSを眺めていて、中学受験する子の親の中に、子の受験成功が親の手柄のように話す人が一定数いるのは何でだろうと話していた。

私としては色々思うところがあるが、親は子を養うのが当然の行為(義務)とされているので、親の日々のしんどさは当たり前と片付けられることが多く、親側の手応えのなさが子の成功に依存されるのではないかと考えている。ただ、許容できる範囲を越えたサポートには顔をしかめる。

私自身はそんなに出来た親ではなく、失敗も多いので人に何かを物申す立場にはいないけれど、他者の助言にはできるだけ耳を傾けるようにしている。例え、耳障りなことであったり、異なる意見であってもそこから見える何かを探りたいと思っている。

「自分はに間違いはない」と疑わない姿勢はプライドがあり、芯があるのかもしれないが、時として周りから置いていかれる存在になる。ひとりで生きるにしても本当にひとりでいることは難しく、結局は誰かの手を握る可能性が高いことを忘れてはいけない。

 

と、私自身の肝に銘じておく。

20250903 とりとめもなく

ねっとりとした空気が体にまとわりついた8月は爽やかさを一欠片も感じさせない気概があった。

暑さは続くけれど9月に入り朝の爽やかな空気を肌で受け止めた。ベランダに出て洗濯物を干すとき、近くの施設の駐車場で水やりをしている方を見かけた。この時間にすでに仕事をされていることに頭が下がる。

 

体が思うように機能しないことがある。多くは薬の副作用らしいが副作用が多種類のため、異変があるたびに不安におそわれる。ホットフラッシュ、膝の痛み、腹痛、めまい…など書ききれないくらいだ。日々、病と闘われている方々を思い出し、私なんかがへこたれている場合ではないと思うがへこたれても良いような気もしている。最近は跳ね除けるのではなく、受け入れることを意識している。

幸い、職場の方は皆やさしく、そのやさしさが逆に私を申し訳なさでいっぱいにさせる。ただ私が出来ることを積み重ね、皆に感謝の言葉を述べつつ、日々を過ごしている。

 

1日は皆に平等に与えられるものだが、その中身は各々の受け止め方次第。何事もなくいつも通りと思える日ほど、成功と言える日はない。

 

青葉市子のライブへ行った。ヒーリングかと思うほど心が澄んでいく。異空間に誘われ、自身の姿が見えなくなった。その時間は私が私であることを忘れた。

 

数日前、ミュージカル『アニー』を観た。子どもの頃、夏休みにゴロゴロしながらアニーの密着ドキュメンタリーをテレビでみた。そこには自分と変わらぬ年齢の子が主役のアニーの座をつかむべく、奮闘する姿が映っていた。

私が観たミュージカル『アニー』は千穐楽でアニー役の子がこの公演で卒業だった。挨拶のことばを求められ、涙が止まらなくて話し出すことが出来ない姿を見ていたら、私の頬にも涙がつたっていた。生まれてから10年くらいの子がどれほど頑張ってきたのであろう。その何倍も生きている私はこの子のような涙を流せるだろうか。

いや、また流せる日が来るかもしれない。

なぜなら私はまだこの先を知らないのだから。