バンビのあくび

適度にテキトーに生きたいと思っている平民のブログです。

お寺の法会へ行ってきました

f:id:bambi_eco1020:20140508214819j:plain

 毎月8日にあるお寺の月例法会へ行ってきました。

というのも今年はお寺の役が回ってきまして、その関係で行かねばならなかったのです。
 
義父、夫の祖母、更にそのご先祖様がお世話になっておりますから、役が回ってきても取り合えず引き受けておりますが実は少々気持ちが乗らない事情があります。
 
私は無宗教ではあるのですが、母親がクリスチャンであるため思想がかなりキリスト教寄りなのです。
幼い頃から教会へ通っていましたし、クリスマスイブにもクリスマス礼拝へ行っておりました。母親は礼拝時のオルガン奏者でもありましたので、私はオルガンの横にある長椅子にちょこんと座り、賛美歌を大きな口を開けて歌い、牧師さんの説教でウトウトし、そのまま長椅子の上でスヤスヤ眠る・・というお決まりパターンを楽しんでおりました。礼拝が終わるとみんなが起こしてくれるのですが、スヤスヤ眠り続けるので「眠り姫」と呼ばれておりました。たしか5歳くらいまでそんな感じだったと思います。
それでも何度も何度も説教を聞いていましたから、私の根底にはキリスト教が生きていると思っています。
 
 
私が現在住んでいる場所は何世代にも渡って浄土真宗と関わり合いの深い地域です。
お寺があり、それを取り囲むように家々が建っているイメージですね。お寺はこの地域の人にとってはとても身近な存在なんです。
「日曜学校」と聞くと、私は自分が通っていた教会の日曜学校を思い出すのですが、ここではお寺の日曜学校を指すので、最初は違和感しかありませんでした。
ですが、結婚してから義父、祖母を見送りましたので浄土真宗の和讃や文類偈を度々唱えたこともあり、以前よりは受け入れられているようには感じています。
 
月例法会はいつもお世話になっているお寺ではなく、真宗高田派本山の別院で行われます。
そんなに遠くではないのですが、そこに行くのは初めてだったため少々緊張しました。
中に入ると思ったより大勢の人がいたので驚きました。(後から聞いた話によると今日は特別多かったらしいです)
 
まず、真宗宗歌を歌いました。私は今までにこれを歌ったことはなく、ボヤッしていたらお隣に座られていたおばさまが歌詞が書かれた紙を下さいました。
次にお坊さん(このあたりでは御院さんや御坊さんと言う言い方をします)が3人入ってきて座り、経を唱え始めました。その間、お焼香をしている方もいらっしゃいました。お焼香の仕方も地域や宗派によって違うのでなかなか興味深いです。私の実家の地域は拝むように都度おでこの前まで手を持って行きますが、この辺ではただ3回横に移すだけの作業です。サッサと終わって行きます。
その後、文類偈や和讃を皆も一緒に唱えます(リズムがあり、たまに歌のように聞こえます)。
そして恩徳讃を歌い、一旦終了という形になりました。
ここで全てが終了だったらあんまり面白さを感じなかったのですが、一度はけたお坊さんが戻ってきて説法を始めたんです。これに私は食いつきました。
 
 
もしかしたら仏教の基礎中の基礎なのかも知れませんが、先に申し上げたように私はキリスト教で育ってますので新鮮だったのです。
仏教の知識なんて釈迦がゴータマ・シッタッダと言う名前だということくらいしかなかったぐらいですから。
 
説法をしてくれたお坊さんは面白い方で時折、綾小路きみまろ風な発言をしマダムの心を鷲掴みにしておりました。私はそれを一番前の席で眺めていました。無表情で。きみまろもビックリの無表情で。
 
私に気づき、少し怯んだきみまろは釈迦八相の話を始めました。
 
釈迦八相とは釈迦の生涯において重要だった八つの段階のことのようです。
こちらの八つ。
  • 入胎
  • 降誕
  • 処宮
  • 出家
  • 降魔
  • 成道
  • 転法輪
  • 涅槃
一つ一つ話をしてくれましたが、一番「おおっ!」と思ったのは「出家」の時のお話でした。
苦行を捨て、川で体を洗っていた釈迦がスジャータと言う町娘にミルク粥を差し出されたと言うのです。
スジャータ?ミルク?とくるとやはりアレを思い出しますよね。  

 

帰宅後、スジャータのHPで確認したら町娘スジャータの名前から由来しているとちゃんと書かれていました。

へぇ〜ですよ。
 
「出家」の次の「降魔」は悪魔のささやきがあるようです。
例えば空腹時にご馳走を見せられたりするとか。人間は欲望の塊ですからここを切り抜けるのは簡単ではないと思います。
釈迦はここを抜けられたので「成道」で悟りを開いたのだそうです。
 
最後の「涅槃」ここは釈迦の死です。釈迦って死んだのか。そうなのか。とそんなことも知らぬ私。。
そう言えば「涅槃図がご開帳されました」ってお寺に書いてある時があったけど、そういうことか!とやっとわかりました。
死ぬことは通過点で魂は宿り続けるっていう教えです。
 
キリスト教ではイエス・キリストは十字架に打ち付けられて亡くなった後、復活しますが釈迦はそうじゃないんですね。
 
教会の礼拝とお寺法会のどちらも行ったことがある人って少ないと思うんですけど、思想の差はあれど全体的な流れとしては同じような感じだなと思いました。
やはり説教や説法聞くことで理解度が上がるため、より信仰していくのでしょう。
行動の一つ一つに意味があるとわかれば、やりがいもありますもんね。
 
 
また数ヶ月後法会に出なければ行けないのですが、その時は今回より少しだけ楽しめそうな気がします。ほんの少しずつでも私の中のキリスト教と浄土真宗の思想が融合されると良いなと思っています。
 
こういうこともPTAもそうですけど、面倒だと思わずに自分の経験値にして行くと思えばなかなか面白いです。
 
きっと私は今日、ワンランクぐらいレベルアップしてますからね。
今後の私に期待してください。(ウソ。期待しないで☆)
 
 
 
 
 
お寺のコトを書いたので、よろしければこんな記事も書いてます(告別式の話です)