バンビのあくび

適度にテキトーに生きたいと思っている平民のブログです。

あの日の、バカなわたしを思い出したから、あなたも思い出したらいい

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文章を読み、咀嚼していくことが少しばかり疲れるゾーンに突入したようで、あまり文章を読んでいない。気分もいまいち乗らない。晴れているのに、雨が降っていた、あのときの空のようだ。おそらく、もっと忙しくなったらそんなことも忘れ、年末に向けてカウントダウンよろしく動いていくのであろう。というか、それが希望。

そんな中で、アジコ先生のこちらの記事を読んだ。

orangestar.hatenadiary.jp

文章をあまり読んでいないのに、こちらの記事を開いたのは「ほとんど見れるので」の言葉の先を知りたかったからであり、実際に開いてみたら、紹介文が言葉の羅列で今のわたしにちょうど良かった。

私はあまりアニメに詳しくないのだが、新海誠はさすがに知っている。

名前は。そう、名前は。

そういえば、作品はあまり観たことがないと気づき、アジコ先生おすすめ順に4作品すべて観たのだ。良かった。観といてよかったって思った。どの作品も呼吸をしていたから、私も息を吸ったり、吐いたり、飲んだり、止めたりした。雨粒が落ちるとき、雲が動いていくとき、セミが羽化するとき。様々な描写はストーリーの中で一息つける場所であり、思いを整理する場面でもあった。美しかった。

先日、息子の塾の面談で、こどもの頃に将来就きたいと思っていた職業に就けている人は少ないという話をした。それは諦めだけではなく、視野が広がったことで自分の目標が変わっていくからだ。ある程度、年齢を重ねた私や講師がこの言葉を想像することは容易いが、息子はわかったような、わからないような表情を浮かべていた。それらの意味が新海作品を観ることでイメージしやすくなる気がした。

また、それとは別の話で、私自身の思い出話になるのだけれど、昔、会いたいと思う人がいて会いに行ったことがある。といっても、何年も会っていなかったわけではなく、その頃にお付き合いをしていた方だったりする。お互いの住まいが離れており、いつもは中間地点であったりしていたのだが、その日は会いに行きたいと思った。片道2時間強の距離を電車に揺られた。あの人が住むあの町に行けば、どこかですれ違えそうな気がしたのだ。私の心の表向きは、会えなくてもあの町へ行きたいではあったが、やはり心のどこかで期待していたのだと思う。どれだけ町を歩いても姿が見えないとわかったときに、電話をした。メールをした。声を聞くだけで、良いと思ったし、言葉を並べてあるだけでもういいやって思えるって感じてた。けれど、どちらの方法でも連絡がこなかった。勝手に来たのだから、悪いのは自分だし、相手を責める何をもない。開き直って、ショッピングでもしようかと、お店をみて回ったが、心がまったく晴れず、むしろどんより曇っていくばかりだった。楽しそうに歩いている人をみて、なぜだか涙がこぼれそうになった。さすがに歩き疲れ、近くにあったファストフード店へ入った。コーヒーとポテトが乗ったトレーを持ち、2歩ぐらい歩いたところで、手が滑り、盛大にぶちまけた。床に広がりゆくコーヒーと、周りの視線が辛かった。動きの鈍い私をよそに、店員さんはきびきび動いてくれ、すぐに新しいものと交換してくれた。その優しさが申し訳なくて、痛かった。私は席につき、味のしないポテトをかじった。そこで涙がこぼれた。人に見られないように下を向いた。バカみたいだと思った。薄いコーヒーの苦さもひどく悲しかった。

帰りの電車に揺られながら、車窓を眺めた。日が暮れた時間の窓には変な顔をした私が映っていた。そこでまた涙がこぼれそうになったけれど、もう泣くまいと思った。わたしはわたしの住む地へ帰るのだから。次にあの人と会うときは、なにごともなかったように笑っていようと思った。

 

新海誠作品を観て、そんなあの日の、バカなわたしを思い出した。