娘が宿題の「あのねノート」になかなか手をつけないので、早くやるよう促すと、「何も書くようなことをしてないから書けない」と言った。娘は昨日、クラスのお友達と公園で遊んでいるし、今日も本人の希望でブックオフへ連れて行ったりしている。
「はなちゃん(娘の友達)と遊んだことを書けば?」
私が娘に尋ねると、
「はなちゃんと遊んだことは前にも書いているから書けないよ」
娘は嫌々するようなしぐさで言った。
私は娘に、今回はなちゃんと遊んだのは、前回遊んだときと何もかもか一緒だったのかと尋ねた。
例えば、それは昨日のような寒い日であったのか。
話したこともまったく同じであったのか。
娘は「違う」と答えた。
それならばそのように書けばいいのだ。一見、同じようなことでもよく考えてみれば違った日を過ごしている。
娘はやっと鉛筆を持ち「あのねノート」を書きはじめた。
娘がなんとか書き終えた文章の最後はこのような言葉で締めくくられていた。
「昨日は寒かったけど、はなちゃんと遊んでいたら、楽しくて、春のように温かい気持ちになりました」
「あったかくなったんだけど、夏は言い過ぎなんだよな。だから春ぐらい!」
娘は笑いながら、自分自身ででそのときの状況にあった言葉を導き出した。
文章全体が上手いかどうかは別として、それは娘なりの表現だと思った。
「気持ち」は自分の中にしまっておくと、なんにも見えなくなって彷徨うことがある。けれど、少しでも思いを言葉にすることを覚えられると、周囲に理解してもらえることは増えるように思うのだ。
なんにもないような一日こそ、言葉で表すと面白い発見ができるんじゃないかと最近思い始めた。
「個人の日記」をバカにしてはいけない。
「個人の日記」こそ、表現力を試されるのかも知れませんよ。