普段行かない場所を歩くのは楽しい。
ただ、配管を見ただけなのに、私の頭は勝手に色々なことを考えている。
今日は同じように並んでいるのに交わらない管を見て、それって最終地点は一緒なのにプロセスが違うってことのようだなと思った。
この日、このタイミングで目にしたから思ったことであり、明日、明後日だったらまた違ったことを思うかも知れないし、気にも留めていない可能性も高い。
先日読んだ本に、「読むという行為はこちらが言葉に対して勝手に幕をかけたり、外したりしながら錯覚を生み出そうとしているだけなのに、私たちはそれを高尚な読みと称して納得しようとする」と書いてあり、ああ、そうだなと思った。
本でも映画でも街中で目にしたことでも、私は自分に都合の良いように解釈していることが多々ある。本当はどれも考えなんてないのかも知れない。けれど、都合が良くてもそこから私自身が気づけることを拾えるならそれで良いんじゃないかと思っている。
主張が強すぎる物事は、こちらに考える余地がないため疲れてしまうことがあるんだ。
私は本の余白が好きで、そこに書かれていないことを想像して楽しんでいたりする。日常の中で会話をする際も余白を残して話したいとどこかで思っている。だって、私と相手は仮に向かう先が一緒でもまったく同じ道を行くとは限らないもの。
まっすぐじゃなくても良いじゃない。くねくね曲がって、へそも曲げちゃったりして、網とかくぐって、米袋はいてピョンピョン跳ねながら、赤い玉を拾ってみたりするのも楽しいと思うのだ。
今日は息子が今池駅に着いたときに「今池にいま、行け!」とダジャレを言ったら、横にいた推定60歳ぐらいの女性が不思議なものでも見るかのように息子を凝視していたのが面白かったです!
そういう場面にもっと出くわしたい!そんでもっと笑いたい!と思いました。
こないだ読んだ本はコレ。