バンビのあくび

適度にテキトーに生きたいと思っている平民のブログです。

梅のど飴のようだった

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「飴をなめたのって本当に久しぶり」

お姉さんはもらったマスカット味の飴の袋の端にあるギザギザをきれいに縦に裂いた後、緑色をした飴を口に放り込んで言った。そういえば私もそんなに飴を舐めない。冬は喉がいがいがするからのど飴をなめるけれど、春から秋にかけてはあんまり口にしない。たまに飴を買ってもバッグの中に入れっぱなしにしてバッグのポケットをねちゃねちゃにさせてしまい、半分泣きながらふき取ることを繰り返した。だから夏場の飴は要注意でまず手を出さない。

冬場になめるのど飴はほぼ100%に近いくらいキシリクリスタルになった。もっと若い時はホールズだった。さらに若い高校生の頃はカンロの梅のど飴を持ち歩いていた記憶がある。しかもスティック状のものではなく、チャック付きで開閉できる大袋をである。梅のど飴はのどを労わるためではなく単純に味が好きだった。これを書いてて思い出したのだが、高校生の時にみんなが持ち歩いていた飴もそこそこ渋いチョイスだった。タミちゃんは純露だったし、トモちゃんは一里飴だったのだから。パッケージの可愛さとかそういうの本当にどうでもよくて今だったらインスタ映えないだろうと思った。

冬の日は肉まんでも買おうかとコンビニへ向かうと、コンビニの店長さんが「これ、新作だから食べて味を聞かせてよ」とまだ見たことない具がつまった肉まん(肉まん的なものの名称ってなんなの?)をタダで食べさせてくれたりした。私たちは遠慮なくいただいてビシバシとこれまた遠慮なく感想を述べた。女子高生の意見を企業が参考にしていたのはあの頃から変わっていないのかもしれない。

どこからともなく漂ってくる焼き鳥のにおいに耐えられなくなり、焼き鳥を食べながら歩いたこともある。数日後、卒業生から「セーラー服と焼き鳥は合わないと思うし、なんとはしたないことか!」と学校へ苦情が入ったがそれでもやめられなかった。セーラー服にほんのりついた焼き鳥のにおいを嗅ぎながらバスに揺られてうたた寝するのは最高に心地が良かった。

あの頃のほんのりした温かさをもう感じることはないけれど、あの頃に知らなかった温かさを今の私は知っている。

 

今日は猫の日らしい。先日、図書館で「わたしたちの猫」を借りた。ピンクの紙に書かれている恋に関する詩は梅のど飴のようだった。

 

人の心には一匹の猫がいて、そのもらい手を絶えず探している。

 

私の心の猫はどんな模様をしているのだろう。

 

 

 

くるり - その線は水平線

 

 

わたしたちの猫

わたしたちの猫