音のない、しとしとした雨の降る中図書館へ行った。図書館へ行くのは久しぶりだった。車を駐車場にとめ50mほど先にある入り口まで小走りするか、傘をさすかで迷ったが、本がぬれても困るので傘を手にとりゆっくり開いた。玄関はぬれていて滑るため、そこだけ慎重に歩き、館内へと入っていった。特に目当ての本があるわけではなかったので、棚を端から眺め「そういえば読みたかった本」を探していく。雑誌やTwitterなどで読みたいと思っていながら忘れてしまう本が多いのでそれらを発掘するのである。タイトルでピンとくることもあれば、著者名で思い出すこともある。そういった時間を楽しみながら何冊かの本を選んだ。
そのうちの1冊が「雪子さんの足音」であった。
雪子さんは主人公、薫が大学生時代に過ごしたアパートの大家であった。
話は雪子さんが亡くなったところからスタートする。わかりやすく言えば「火垂るの墓」のような流れだ。亡くなったところから回想し、雪子さんという世話焼きな大家との距離感の図り方に戸惑いながらも都合よく利用する若者の話だ。もう1人、アパートに住んでいる小野田さんとの距離も微妙であるように思え、アンバランスで奇妙な話のように思えた。それぞれが孤独でどこかで誰かに繋がりたい思いと、裏には個々の思惑があるのが透けているのが心地悪いような、それでも読んでしまうような話であった。
映画化が決定しているようなので、映像でどう表現されるのか興味深い。
今日Twitterでこのようなツイートを目にした。
男女関係なく「自分の方が絶対に大変」と思う側に「相手の方が大変だろうな」と相手の立場を慮ることのできる側が搾取されるというパターンが多い気がする。
— みお (@miomiopyonkichi) 2018年11月3日
ああ、私は搾取される方だとすぐに思ったのと同時に、自分が大変と主張する人と相手を慮るあまり搾取される人とどちらが生きやすいのだろうと考えた。
「世の中にはあなたより大変な人はたくさんいる」
この言葉はまったくその通りなのだけれど、それだけを思っていると自身がつぶれてしまうのではないかと思う。「自分の方が絶対に大変」ばかりを主張するのはどうかと思うが、時には必要なことであり、愚痴をこぼす必要性を感じる。けれど「相手の方が大変」と考える思考の持ち主は愚痴さえも「相手に負担をかける」と思ってしまうのだな、これ。そういうただ愚痴をこぼせる相手って近しい人じゃない方が良い場合も多くて、そういった言葉がTwitterなどに流れてくると「よしよし、もっと言ったらいいよ!」と思ってる。
言葉にすると気持ちが整理できることもある。
私のブログでそうであるように。