何気なく見ていた高校野球の選手達が自分より年下だと思った時に自身の年齢を感じた。「私は私が何者にもなれないうちにいつの間にか年齢だけを重ねているのではないだろうか」
それはこの年になるまでに度々感じさせられることだった。
例えば相撲を見ていて横綱が年下であったとき。
例えば私が10代の頃に若くして亡くなった美しい女優さんの亡くなった年齢を超えていたとき。
例えば幼き頃に私を肩車してくれたあの日の父の年齢に追いついたとき。
例えば両親の深い皺に驚いてまじまじと顔を眺めたら「年寄り」と呼ばれるその人たちの顔であったとき。
私はその都度驚きや落胆よりも焦りを感じでいる。私は年齢と解離しない程度の人間になっているのかと不安になるのだ。
だが、そもそも何かを成し遂げるとか思いつつ、私は何を目指しているのだろうとも思う。
こないだ毎週見ていたドラマ「僕らは奇跡でできている」が最終回を迎えた。最後こそ「えっ!」とはなったものの全体を通して大きな展開があるわけではなく、心地よく眺めていられる素敵なストーリーだった。こどもも大人もそれぞれ悩みを抱えているけれど、「自分はこうだから」「これしか方法がない」ではなく、本当にそうなのかもう一度自分に正直になってみる必要があると思わされた。生きているものすべてが奇跡なのだから、自分がやりたいように生きようというメッセージが根底にあるからだろう。生きてるだけで肯定されるのは幸せなことだと私は思う。
ある回で「私はあなたのすごいところを100個言えます」と主人公が話す場面があった。おいおい、いくらなんでも100個はなかなかないでしょうよ!とドラマにツッコミを入れる私を余所にそのまま言葉を続けていく。
内容は詳しく覚えていないのだけど、だいたいこんなことであった。
「あなたはひとりで起きられます」「明日の準備もすることができます」「毎朝、歯を磨きます」「歩いて学校へ行くことができます」「絵を上手に描けます」「弟と仲良く遊べます」
いつもこなしていれば、「なんだ、そんなことか」と言ってしまいたくなるかもしれないが、このひとつひとつのミッションを毎日こなすって実はすごいことなのではないだろうか。
私は先日、回転性のめまいでまったく動けなかった時にトイレにもまともに行かない自分がみじめで少しだけ泣いた。立てるようになってもふわふわした状態がしばらく続いて、作業を長時間行うと気分が悪くなった。やっと地上に足がついて気分が悪くなることなくまっすぐ歩くことができた時、とんでもなく嬉しかった。歩けるだけで嬉しいと周囲に言って回った。スキップをして見せた。ジャンプもした。見せられた人はやや呆れながらも「良かったね」と笑って言ってくれた。
生きるためのハードルをあげるのは周囲の環境だけでなく自分であることもあるような気がする。
私はここからまた楽しく生きていくために自らのハードルを下げに下げまくろうと思う。
今日も朝、起きられた。
今日も笑えることがあった。
すべてが明日への生きる力になるように。