バンビのあくび

適度にテキトーに生きたいと思っている平民のブログです。

20190830 ~ささやかな

ふわふわと動き続けた8月ももう終わる。

4月からずっと自分の立ち位置はどこなのかを考えていたが、8月は考えることを少し放棄して楽しむことに徹した。そうでもしないとバランスが悪かった。苦しいとか辛いとか一言で表すような出来事がどどーんと起きるってわけじゃないけど、ずっと継続してちくちく針を刺されているようだった。今も感じている。

思い切りの良さと強さが欲しいと願っている。七夕のお願いごとが何でも叶うのなら間違いなく「自分の弱さを遥かに超える突発的な強さがほしい」と書くだろう。

それほど勢いを欲している。

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こども達と選挙や災害があった時に話をしている。

わざわざ話をするというよりもそこに話すべき議題があったからなんとなく話しているというのが正しい。

思えば、私も小学生や中学生の頃に兄、母と夜中になるまで話をしていたことがある。選挙の開票速報後や世界情勢、経済の混乱などその時にテレビで報道されたことが議題になることが多かった。私の家はごく普通の家庭で特にそういった話題に強いとか真面目な雰囲気もなかったが、あれらの報道を見ていると子どもながらに疑問が生じ、母に質問したところから話がスタートすることが多かった。母は私たちの質問に対し、子ども扱いせず説明してくれた。時々、理解できないこともあったがそれでも楽しいと思っていた。いつもは寝ているような時間まで話を続けて、誰かがあくびをしたから終わりにするという特別感もあったように思う。レジャー施設に連れて行ってもらったことなどは「行った」ということしか覚えていないのに、夜中まで話をしたことは空気も含めて覚えているのはそれほど大事な時間であったことの表れなのだろう。

子どもの記憶に残ることなんてささやかな日常の一部なのかも知れないと自身の幼き頃の記憶をたどるたびに感じている。

 きっと、夜のスーパーへデザートを買いに行ったこととか、いつもは買わないフレッシュジュースのお店がすいかジュースだけ値下げしてたために買ったらめちゃくちゃすいかで美味しかったこととか、そんなことを大人になって思い出して少しだけ嬉しくなるのだろう。

そういった記憶は、場面に登場するすべての人が笑っている時が多いこと、ただそのことだけわかっていれば明日からも笑えるような気がするのだ。