娘の卒業式だった。
小学校を卒業する娘の卒業式は昨今話題になっているウイルスの関係で縮小して行うことになった。
近年、卒業式の服装が華美になりすぎているのは娘が通う小学校も例外ではなく、昨夏には「華美にならない服装で」との通知が届いていた。実際、フタをあけて見れば息子の頃には数人いた袴の子はおらず、大半は中学校の制服で出席していた。中学校の制服と言ってもそのまま着るのではなく、ジャケットだけ着用してスカートは違うもの、ネクタイをするなどアレンジしている子が多く、個性があって面白いなあと思った。
私は卒業式が始まるまで本を読んでいた。何人かの知り合いが声をかけてくれたので、時々顔をあげた。この1年くらいはそれ以前よりもひっそり暮らしていたため、声をかけてくれる人がいるだけで嬉しかった。
体育館には2名までの保護者、6年生の担任、校長、教頭などの他は最低限の人のみで来賓も在校生もいなかった。卒業生が入場する。人数が少なく、カメラで子どもを撮っている親も多かったので拍手の音が小さく聞こえた。私はできるかぎりずっと手を叩き続けた。卒業式の練習が出来なかった卒業生はぎこちない動きで緊張しているようにみえた。卒業証書をひとりひとり手渡されるとき、お辞儀を忘れる子、順路を間違える子、小さい声で友達に指摘される子が続出していた。けれど、これが本来の姿なのかも知れないと思った。個性があり、皆で助け合ってなんとかカタチにしている卒業式はかえって子ども達の成長を感じさせるものになっている気がした。ふと気づいたら目から涙が溢れていて、着用を義務付けられいたマスクを濡らしていた。3月で定年を迎えられる校長の挨拶は32年間教員生活を送った最後の卒業式がこのような形であっても行えたことを嬉しく思うと話されていた。
練習不足で上手とは言い切れない歌を聞いても涙が止まらなかった。
縮小された卒業式だったけれど、行えたことは皆を安堵させ、節目として気持ちを整理できたのではないかと感じた。
外に出たら空が青かった。
どこまでもどこまでも続いている空があった。
卒業式であまりにも涙が止まらなかったため考えていたのだが、この涙は息子が卒業したときの涙とはまったく別のモノだと思った。息子の卒業式のときは息子の成長を思う気持ちとこれからの期待が大きい喜びの涙だった。だが、今回の娘の卒業式はそれとともに、カウントダウンまでしていた卒業の日までを仲間と過ごせてあげることが出来なかった無念と私がもっと娘にしてあげられたことがあったのではないかという自責の念も含まれていたのだと思う。
私は昨年、子どもを連れて家を出た。もうすぐ別居して1年になる。子ども達の声を聞き、そのような行動に出ざるを得なかったことは事実であるけれど、もっと良い方法があったのではないか、私は子どもの気持ちを理解出来ているのかとずっと考え続けている。相手に家を出ると事前に告げたことで娘のランドセルや絵の具セット、裁縫道具などの学用品を隠されて持ち出せなかったため、娘は最後の1年を私が買ってあげたリュックを背負って学校へ通っていた。学用品については学校が快く貸し出してくれ協力してくれたが、私としては6年間ランドセルを使わせてあげたかった想いや彼女の気持ちを考えるといつも胸が苦しくなって泣きそうになってしまうのだ。
卒業式を終え、先生方が作ってくれたアーチをくぐったあと、担任へお礼を言いに行った。事情のある私たちを支えて下さってありがとうございますと告げると「いえ、私は何もしていませんよ。娘さんが自分で成長されたんです。娘さんは自分のことだけでなく、相手の気持ちを考えることが大事だって皆に教えてくれるんです。家庭でどんな関わりをしたら、あんなに考える子になるのかといつも思っています」と仰られた。担任はいつも娘だけでなく、私も肯定してくれる人であり、そのような人に出会え、支えてもらえたことを考えたらまた涙が溢れてしまった。大丈夫ですよ、真っ直ぐな子ですよ、そう話す担任の声が耳栓をしているのかと思うくらい遠くに聞こえた。
「4月になったら、去年みたいにまたお弁当持って公園に行きたい」
娘がずっと言っている。
「そうしよう」
息子も同意する。
私たちは苦しいこともあるけれど、ささやかな喜びを知っている。
大きな渦に巻き込まれそうになっても私たちは自分でできる何かを探し、迷いながらも歩いて行くだろう。
行き先がわからなくても歩いていけば何か違う世界が見えてくると知っているのだから。