手に力が入らないことがたびたびある。
極度の不安からきているのではないかと推測しているが、心の在り方がどうにもわからず、もやもやした日々を送っている。
「行動すること」がいちばんの近道だと数ヵ月前に心を決め、動き出した。だが、世の中の動きと合致せず、決めた心がゆらゆら揺らいでしまい、現状に至っている。
一度、揺らいだ心を立て直すことは、容易ではないのだなと身をもって感じた。
先日、教会へ行った。
娘が「行きたい」と言ったのがきっかけなのだが、私は幼少期に教会へ通っていたし、加えて、知人の牧師がいる教会を選んだのでそこまでハードルの高いことではなかった。
それでも新しい場へ赴くことが苦手なため、目的の教会が近づくに連れて緊張していた。入り口がどこかもわからずにくるくるしてしまったが、入ってみると妙に落ち着くことができた。おそらく、教会は違えど、私はこの空気を知っているからなのだと思った。長椅子に腰かけて礼拝前の雰囲気を久しぶりに感じた。窓から入ってくる風が気持ち良かった。オルガンの音も心を落ち着けてくれた。「主の祈り」は何年も口にしていなかったのに、口から勝手に言葉が飛び出していった。牧師の説教は時に緊張し、時ににやにやしながら聞いていた。
話しかけて下さる方の穏やかな声のトーンが優しかった。
春夏秋冬の順番を変えることができないように抗うことのできない流れはある。自分の手でどうにもならないことは、流れるままでいてもいいのだろう。そこでじたばたしても手足に傷を作るだけなのだろう。
ただ、季節の順番が変わったら面白いよなぁと願ったり、思うことは自由だ。
何度も心を立て直すことを繰り返している。とても苦しく、先が見えないのだが、一筋の希望があるとするならば毎回がゼロからの出発ではないように感じることだ。
イメージとしては、ブロックで組み立てた家を誤って壊してしまったときに似ている。全部のピースがばらばらになることは少なく、たいていは土台であったり、家のどこかの部分は繋がった状態からもう一度作り直すことができる。また、出来上がったカタチを思い描けるため、改善することもできる。
不器用なのだから、ゆっくりやっていこう。
基盤となる生活を見つめていこう。
「私らしさ」を取り戻すために、行動することを恐れないで進んでいきたい。
動くことは怖いけれど、何も変わらずにこの場に留まることはもっと怖いことなのだと理解しているのだから。