バンビのあくび

適度にテキトーに生きたいと思っている平民のブログです。

わたしはいつもそこで。


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ブログにも時々書いているが、現在、私の父は脳梗塞による認知症のため入院をしている。私はもう1年以上会っていないし、他の家族もリモートで会話をしたのが半年以上前らしい。この時世なので仕方がないことだと思いながら日々を過ごしている。

今年に入って病院から2回ほど容体が悪化したとの連絡があった。その都度、母に延命治療をするか意思確認の連絡が入った。母、兄、私は事前に延命治療はしないと決めているが、人の生死や尊厳が関わることなので、病院側は毎回確認をして下さる。そして、母も毎回、私に電話をしてきて確認をする。もう言ってあるよね?などとはならない。人の気持ちは変わるものであることの他に、母自身が自分の意思決定に再度、私の同調を求めていると思うからだ。人の生死が関わる問題を決定づけることは延々と迷うことだと思う。「あちらを選んだら?」などのたらればは、これから先もずっと抱いていくのだろう。

私たちが延命治療を望まない理由はいくつかあるけれど、一番大きいのは「父だったら望まないだろう」に尽きる。私達が見てきた父だったら望まない。ならば、答えは一択だ。それに反した答えを導くことは私達、残されるだろう者のエゴに他ならないと考えている。

私達の考えを私は子ども達にも話している。子ども達は概ね理解しているようだ。ただ、ここで、間違ってはいけないのは、私達の考えはあくまでも私達家族の話であることだ。それはこども達にも伝えており、もし、延命治療を望むご家族がいるならば、それも正しいことだと理解することが大事だと思う。

自分達が正しいと思い込むほど怖いことはないし、他者の言葉が届かなくなるほど傲慢になってもいけない。

子ども達は私が選んだ道をともに歩んで来た同士でもあるので、意見の違う人の言葉にも耳を傾ける必要性を肌で感じできたことだろう。本当に大変な思いをさせてしまったと思っているが、私にできることは子ども達が家を「居場所」として認識できる場にしていくことだと思っている。泣いても笑っても怒ってもいい。感情が出せる相手が私であるならば、それらを受け止めようと思う。

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岸田奈美さんが期間限定で公開していたnote「ワクチンを打ったわたし、心臓を止めない薬」を読んだ。ワクチンを打つか打たないかはそれぞれの人の背景を含めて考えたらいいと思うので、そこに触れるつもりないのだが、私がこちらの文章で大きく頷いてしまったのは、家族が死んでしまうときに、医者にたいして怒りをぶつけることと、それを黙って引き受けた医者についてだ。

悲しみ、怒り、それらを言い返すわけでもなく、引き受けてくれた人。

その医者の姿に私は自分が依頼した弁護士を思った。私が相手から向けられた悪意は、当時、弁護士にたいしても向けられ、そのような文章が届いたという。内容を聞くことまでは私が耐えられないのでしなかったけれど「それが仕事だから」では済ませていい話ではないと思った。

弁護士と話をしているとき、「こんなに重い事案をいくつも引き受けていたら疲弊しませんか?」と尋ねたことがある。やはり弁護士も人なので、あまりにも重くなったときは調整するとのことだった。

特に、最初の相談で自分とは明らかに考え方が異なり、寄り添えないと判断した場合「お力になれそうにない」と伝えたりするのだそうだ。その話をしているとき、弁護士はこう続けた。

「弁護士はね、こちらもある程度選べるから良いんですよ。でも医者はそういうわけにはいきませんよね」

微笑みながら語られた言葉を私は忘れないと思う。

人を支えることは並大抵の精神力では難しいね、と、弁護士と接してから息子と話したことがある。

私は弁護士にかかる費用以上のことをしてもらったと思っているし、何より、頼る人のいなかった私を支え、不安を和らげてくれる存在であった。とても頼もしかった。

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私は多くの人に関する関わりながら、今を生きている。

月曜日に出社すると、1枚のFAXが届いていた。何度も話したことのある取引先の方が、亡くなられたと書かれていた。50歳手前だった。人がひとりいなくなった世界はいつもと変わらないように回っていた。

きっとこの先もそうだろう。

私がいずれいなくなったとしても。