心がずっと痛くて呼吸が重いので、頑張らずに生きていようと思う。
だって、もう十分頑張ったと思うのだ。
日々、実働9時間くらい働いていて、家事をし、世話と言うほどではないけれど、子どもに声をかける。笑って生きて……もういいではないかと思う。
「見てる人は見てるから」
会社の同僚が要領よく動く(この場合、たいして仕事をしていないのに美味しいところを持っていくの意)人を見て言っていたけれど、そういうものでもないのは、それなりに生きているとわかる。
抱えこまないこと、荷物を減らすことを意識して身軽でいるのが近道だなぁと思う。
まあ、とりあえず。
動作を0.7速度くらいゆるやかにする。
農産物直売所に赤そら豆が売っていた。調理したことがないためググったところ、炊き込みごはんにすると良いと書かれていたので、早速作ってみた。
炊き上がり。赤飯のようにごはんがほんのり色づいた。
うん、これは美味しい。
赤そら豆の炊き込みごはん、棒々鶏、揚げ野菜のマリネ、スープ。
棒々鶏のたれも美味しく出来たので、自分が作った料理に満足する。チェーンのお店よりは美味しいはず!
私を満たすのは私。
ちびちび読んでいたインベカヲリ★『私の顔は誰も知らない』を読み終えた。写真家である著者が被写体の女の子から聞いた話をまとめたエッセイ。写真を撮られたがる子は精神的に不安定な、特別な子ではないと思う。
多くの女性(もちろん男性も)は擬態して生きている。人に気に入られたいというより、身の安全を確保するためにそうしている場合が多い。マジョリティはマイノリティに比べ、攻撃されることが少ないことも一因。
それから、これは私も経験しているし、ブログにも書いたことがあるが、勝手に私の像を作り、私が自由に動くと「イメージと違う。そんな人とは思わなかった」と言い放ち、以前との関係性より距離を置く男性の存在が私を擬態化させるきっかけを与えた。
なぜ、あなたの思い通りにならないといけないのだろう。
私が私であることは許されないのだろうか。
どんどん、素の私でいられる場所が狭められ、私がわからなくなることもあった。
せっかく私を出せる場が出来て安心したのに、消えてしまったこともある。
心を強く保とうと、ひとりでいられるくらいにはなっているけれど、それでもやはり、素の私を出せる相手が欲しいとずっと願っている。
許容してほしい。それだけ。
本の世界は、私がため息をついても泣いても怒っても許してくれる。
生活に制限はあるけれど、心はどこまでも自由でいたい。