数年前から韓国文学を好んで読むようになった。 きっかけは今となってはよく思い出せないが、その当時の私が抱えていた傷を柔らかく包んでくれるようで心地が良かった。優しいだけではなく、苦みも苦しみも同時に引き受けながら、時間をかけて癒してくれる力が韓国文学には感じられた。何冊も読むうちに好みの作家が現れた。それがキム・ エランだった。
今年日本で刊行されたキム・エラン『ひこうき雲』を読んだ。
キム・エランの『外は夏』に感銘を受けた私の『ひこうき雲』 に対する期待は、634mmを誇る東京スカイツリーよりも高くなっていたはずなのだが、そんなものはあっさりと飛び越えるくらい素晴らしい本だった。
『ひこうき雲』には8篇の物語が収録されている。
最初の物語『そっちの夏はどう?』は、やや太目な体形のミヨンが憧れの先輩からバイト話をもちかけられたが、同日に幼馴染の葬儀があり迷ったミヨンはバイトへ向かう話だ 。 淡い恋心を持つことさえ許されないような酷い仕打ちにそちらを選んでしまったミヨンの後悔が痛々しいまでに伝わってきた。
「自分が生きているから、あるいは生きている間、たくさん傷ついた人がいるのだろうという気持ちになった。 自分の知らないところで、知り合いや、ひょっとしたら面識のない人も、私のせいでたくさん傷ついただろうと。」
ミヨンのこの言葉は自身ではどうにもできない心情を含んでいるように感じた。
『水中のゴリアテ』 は廃墟寸前のマンションに住んでいた男性が大雨で母親とともに流される話。なんと救われない話だろう。ここから先どれだけの時間待ち続けるのかを考えてしまい、恐怖を感じた。暗闇の中にひとり取り残されたとしても終わりが見えていれば何とか耐えられることもあるが、終わりが見えないことはどれだけ人を疲弊させ、絶望の淵につれていくことだろう。
『1日の軸』は空港の掃除をしている女性の話だった。緻密で繊細に描かれており、実在する人物の日常を垣間見ているようだった。
キム・エランの作品は内容もさることながら、描写が素晴らしく、思わず声を出してしまうような箇所が幾つもある。
「梅雨は終わらず、西瓜の味は落ちていく。 夏だからそういうこともあるだろう、以前にもこんな日があった。 太陽の下で、たわわに実った甘柿のように硬かった地球が糖度を失ってぶよぶよ になった日々が。」(水中のゴリアテ)
「生ごみの指定袋から漏れ出た水分のにおいが、清涼な早朝の空気に乗ってキオクさんの家まで運ばれてきた。 昨晩よく眠れなかった都市がけだるそうな顔で伸びをしながらまき 散らす口臭だった」(一日の軸)
すぐに浮かんだ2つを挙げてみたが、自分好みの表現を拾って読む楽しみもあるかもしれない。
また、 古川綾子さんの訳が素晴らしいことにも触れておく。
キム・エランが描く世界の多くは辛くてやるせないが、『ひこうき雲』の作品すべてが韓国社会で実際に起こった出来事がモチーフになっていると訳者あとがきに書かれている。再開発ブームに伴う惨事、 タワークレーンでの高空籠城、違法なマルチ商法、この世のすべてを飲み込むかのような豪雨。それらを知ったうえでまた改めて読んでみると、遠くから眺めていたような辛さがすぐ手の届くところまでやってきた。自分で処理しきれないほどの重たい石を持たされた気持ちになった。
だが、果たしてこれらは辛いだけの話なのだろうかと考える。
目を反らさずに現実を見つめたからこそ、宿る力があるのではないか。
自分を隠すようにしていた厚くて野暮ったい皮を脱ぎ捨てて無様な姿を見せることで、身軽になって進むことが出来るのではないか。
自身の無力さや小ささを認めることすら私には強さに感じた。
キム・エランは少しずつ良くなるとか、明日は素晴らしいなんて語ることはしない。密やかに息をしながら生きていく人間を描くことで、虚無感に寄り添ってくれるように思う。
少なくとも私は、キム・エランの文章によって支えられているのだ。