バンビのあくび

適度にテキトーに生きたいと思っている平民のブログです。

起床。寝ぼけたまま洗濯機へ向かい、洗濯物をかごへ入れると、ベランダへ出て洗濯物を干し始めた。近くの施設の人が外の喫煙所に並べられた椅子に腰かけているのがタープ越しに確認出来た。

施設ができる前、ここは田んぼだった。

私が今の住まいに越してきた頃、アパートの横には用水路があり、この季節には用水路を流れる水の音と蛙の鳴き声を聞くことが出来た。夜、不安で悲しくて眠れない日は、水の音が私をなぐさめてくれた。そして蛙の声は私に寄り添ってくれた。足元がぐらぐらしていても音や声が私の立つ場所を示してくれた。

私は何気ない日々のワンシーンを心に留めることを続けた。穏やかな日々は平穏な生活の中では見過ごされてしまう。わざわざ心に留めなくても、それ以上に刺激的で愉快な出来事が溢れているため、ささやかな出来事など空気のように、存在しているのかいないのか意識しないとわからないからだ。

自分を見失わないためには自分の置かれている場所がどこなのか、確認しなくてはならないと思った。

太陽が昇り、沈み、月が出て、夜を連れてくる。木々は揺れ、川はせせらぎ、いきものは生きていることを主張する。そのサイクルの端っこに自分がいて、ゆっくりと呼吸をしている。

ここでの生活に慣れた頃、田んぼが整地され、用水路も役目を終えた。水の流れる音は消え、蛙の鳴き声は遠くのほうで聞こえるだけになった。しばらくはさみしかった。寄り添ってくれたものが私を置いて消えてしまったと思った。

やがて、整地された場所に施設が立ち、またしばらくすると、施設の外階段下に喫煙所が設けられたのが見えた。

ベランダへ出て、洗濯物を干していると楽しそうに談笑している声が響いてくる。全く知らない誰かの笑い声は私を落ち着かせてくれた。私の感情が揺れていても、今ここで、楽しく笑っている人がいることに安心した。

しばらく前に隣に越してきた方々もよく笑う人らしく、壁の向こうから笑い声が聞こえてくる。

ああ、今も笑っている。

今日も明日も明後日も、私は誰かの笑い声によって生かされているのかもしれない。