バンビのあくび

適度にテキトーに生きたいと思っている平民のブログです。

ぎこちない動きで


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最近はずっと暗くなってから帰宅していたため、久しぶりの夕暮れ空を目にしたら悲しさと虚しさでやるせなくなった。

20年くらい「季節を感じられる心のゆとりは持っていたい」とさまざまな場所で発しているが、そのゆとりすら持てていなかった日々は何処へ消えていってしまったのだろう。

おそらく土から顔を出した青い草にも気づかず、あの人の顔も思い出せなくなるのだ。

数年前、本当に好きな人の顔は思い出せないと言う文章を書いた気がする。楽しい時間をともに過ごし、その余韻で心が満たされると相手の顔はぼんやりとしか思い出せなくなる。顔よりも時間と空気と手触りが鮮烈に残り、それだけで十分になってしまうのだ。今はすぐに写真を撮ったりするのかもしれないが、あの相手の顔が思い出せそうで思い出せずに考え続ける時間も尊かった。

確かにそこに存在していた身近な相手の顔が一番思い出せないことに笑いそうになるが、近すぎると見えないのだとおもう。

見えなすぎて、近いひとへの敬意が薄れ、多くの失敗を繰り返すのかもしれない。

私が私を嫌うとき、誰かにはかばってもらいたい。私が存在していることを肯定してもらいたい。他人に何かを委ねたり、期待することはできるだけ止めているけれど、時に全てを委ねたくなる。

私が抱えている重たい荷物を置き去りにして、軽やかに舞っていたいと思ってしまう。現実は重たい荷物を背負ったまま、ぎこちなく足を動かしているだけに過ぎないが、その姿を笑うひとからは離れていたい。

今度はあなたを誘うから一緒に舞って下さい。

20240309 老いも若きも

平日が多忙のためゆっくり眠っていたかったが、毎年確保している劇VIPの発売が今日だったので慌てて起きる。無事に劇VIPを手に入れたのち、息子に駅まで送ってほしいと頼まれたので車に乗せて駅まで送っていった。せっかく早い時間に外へ出たので、そのまま久しく訪れていなかったパン屋さん、sido boulangerieへ行ってみることにした。四日市にあるsidoはビゴの店で修業をした店主が営んでおり、ハードパンが多く、私がすきなパン屋さんのひとつだ。いつも混んでいるイメージがあるが、今回もやはり駐車場がいっぱいだった。店内へ足を踏み入れると小麦の香りと忙しく動く店員の姿があった。


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私が一番好きなパンはグリーンオリーブがごろごろ入っているオリビエなのだが残念ながらこの日はなかった。それでも目移りするほど美味しそうなパンが並んでおり、選んでいる間にも新しいパンが続々と焼きあがってかごに並べられていった。いくつかのパンをトレーに取り、レジに持っていく。レジ打ちの店員がものすごい速さでボタンを押していく。私がお勘定を払おうとしたとき、新しくやってきたお客さんがドアを開け入ろうとしたが、どうやら入場制限を設けているらしく外で待っているよう店員に促 されていた。購入したパンを袋につめ、外へ出るとドアの横に列が伸びていた。

パンを購入したあと、すぐ横にあるこどもの本屋「 メリーゴーランド」へ行った。新刊の棚から順に眺める。 最終的に手にしたのは昨年、岩波書店から記念復刊された『 ぞうさんレレブム』『ふわふわくんとアルフレッド』と、平置きされていたブルーノ・ムナーリ『遠くから見たら島だった』の計3冊だった。『遠くから見たら島だった』はブルーノ・ ムナーリが観察した石のエッセイで、写真もあり興味をひかれた。また、訳者が関口英子であったことも手に取るきっかけになった。関口英子は新潮クレストブックスでイタリア語の訳者としてよく目 にする名だった。レジでお会計をしていると、良い本ばかり選ばれますねと店員に話しかけられた。

一旦帰宅後、老いのプレーパークによる「老人ハイスクール」「 いざゆかん」を観劇するため、すぐに三重県文化会館へ車を走らせた。


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文化会館小ホール入口ではすでに劇VIP会員の受付が始まって おり、慌てて受付へカードを差し出した。いつもありがとうございますの声をかけてもらい、文化会館の松浦さんに今年度の劇VIPを購入した旨を伝えた。 ロビーには顔見知りの方が何人かいた。ホール入場後、一番後ろの席に座った。ひとりで観劇することがほとんどなのだが、今回は隣に知人が座って下さったので演劇界隈の話をした。 後ろを振り向けば、顔見知りの写真家やエグゼクティブディレクターが仕事をしていた 。

老いのプレーパークは老いを楽しむプロジェクトで高齢の方を中心に幅広い年齢層の方々が老いを楽しみ、演じられている。主宰の菅原さんが作る脚本は良い意味でシニアをシニアとして扱っておらず、何でもやりたい放題だ。この舞台を観てしまうと年齢という指標は何の役に立つのだろうと思ってしまう。老いも若きも夢があり、生きていく楽しみがあり、人間であることに変わりはない。根底に尊厳が感じられながらも、ずっと笑ってみていられる最高の舞台に最後は勝手に涙が流れていた。生きているあいだはずっと「ごっこ遊び」でありたいと思う。演じている役者だけではなく観客をも巻き込む舞台はともに生きている感じがしていつも魅了される。観劇後、ロビーで元気よく手を振っていらっしゃった老いのプレーパークの 方々がきらきらしていて眩しかった。

 


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ポップコーンを食べている

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知らぬ間に3月になり、啓蟄を迎えていた。草木も虫も土から外へ出たがる季節になったわけだが、今日は雨降りだった。

2024年になってから雨の日が多い。2月にこんなにも雨が降った年があっただろうか。雨の日に車を運転するのは神経を使うが、雨というカーテンに遮られ、外部からの視線を感じずにいられるのが好きだ。私だけの部屋が移動している気がするし、好きな音楽もPodcastもがんがん鳴らせるのがいい。今日は柴田聡子を聴いて心地好くなり、Podcastで「どうせ死ぬ三人」のエピソードトーク対決を聴いて大笑いした。あのいらつく相槌が計算されているならすごい。

私が参加している「本の会」でも巧みに本の紹介をする強者たちがいる。私はただ好きだという熱量だけで話しているが、時々真面目に紙に話したいことを書き出してから挑むこともある。できるだけ聞いてくれる人たちが飽きないように伝えられたらいいなあと思うけれど、考えすぎると疲れるのでほどほどにしている。

先日は映画「ボーはおそれている」の感想を語る会にも参加し、楽しい時間を過ごした。映画の会は基本的に、いつもひとりで映画へ行き、誰にも感想を話せずにもやもやしている私を察して友人が開いてくれるスタイルになっている。おそらく、相当「話したい、話したい」の圧を出しているのだと思う。「本の会」周りで知り合いが増え日々楽しくやっているが、やはり何処かで「ひとり」であることを感じてしまう。子ども以外の家族や学生時代の友達が近くにいないことは私のちょっとした悩みを打ち明ける場所がないことを示している。最近はありがたいことに仕事が忙しく、金銭面はなんとかなっているので悩みがひとつ軽くなった。

本の会周りの方々はユニークな思考の方が多いのだが、学生の子どもがいるシングルマザーがいない。そもそもシングルマザーはそのような会にもなかなかアクセスできないのかも知れない。私はこの何処にも出せないしんどさをいつも飲み込んでしまっている。

できるだけ笑い、できるだけ充実したように見せ、悩みなどさほどないように動き、それらをこなした私に果たして何が残っているのだろう。

得たものより失ったものに目が向いてしまう自分に嫌気がさす。だんだん性格が歪んでいる気もしていて、全身が痒くなってくる。

それでも足掻いて私は今日も地の上に立っている。これを「頑張っている」と言わずして何を頑張るというのだろう。

とりあえず子ども達が困らない生活を維持することだけは自分に課している。

時々、娘に「ウチって貧乏なのかなあ」と聞いてしまうことがある。娘は「ポップコーンの食べ比べができるくらいだから十分でしょ」と言った。

この返答が笑わせにきているのか、本気なのかわからぬまま、今日も笑って明日を待っている。