バンビのあくび

適度にテキトーに生きたいと思っている平民のブログです。

過去に動かされている

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桜の樹に青々とした葉が広がってきているのを眺めながら車を走らせた。週のはじめは気が重いが、明るい風景になんだかスタートが良いような気がした。

ただ、やはり、気がしただけだった。

そこからは慌ただしく動き、目の前の仕事に追われていたらあっという間に11時間経過していた。へとへとになりながら会社を後にし、ドラッグストアで娘に頼まれていたコンディショナーを15%OFFクーポンを使用して購入した。夕飯を早々にすませ、一息ついたところで久々に言及通知が届いた。

 

himasogai.hateblo.jp

私が参加している「本の会」で良くお会いするimasogaiさんからだった。

私のZINE『ノースポール』の感想とともに、過去について語られている。

せっかくなので、アンサー記事っぽいものを書いてみようと思う。

私にとっての過去は良くも悪くも私が歩んできた道に他ならない。RPGであるならば、おそらくもっと平坦で効率的に動く道もあったと思われるが、私は凹凸があり、険しい山も乗り越えてきた。いわゆる黒歴史もあるし、過去の失敗を思いだし、頭をかきむしりながら眠れぬ夜を過ごすこともある。

ただ、私は未来に微かな希望を持つのと同じように、過去にも間違いなく救われている。

「自己肯定感」という言葉が一時期流行りのように使われていたが、自己を肯定することは相当育った環境が良いか、素直さを全面に持ち合わせた人が手にすることができる、特別なものだと思っている。私も心がへし折られないように、自己を肯定するよう努めているが、やはりなかなか困難なときもある。そのようなときに、過去に誰かから受け取った愛情や優しさを思いだし、支えとしている。それが過去にすがる行為だとしても、今の私が立つための杖となっているのであれば、何ら問題ではない。

信頼するあの人が私に好意を持ってくれた。

あなたの思う道を進んでいいよって言葉をかけてくれた。

静かに優しく見守ってくれた。

心から心配してくれた。

頼っていいと言ってくれた。

自己を肯定する力が弱いと「私なんかにそんな優しい言葉をかけないで……」とまで思ってしまうけれど、私が信頼しているあなたがそう言ってくれるなら、私もまだ生きてて良いのではないかと考えるようにしたらなんとか歩けるようになってきた。それが一過性の関係でスポットで投げかけられた言葉だとしても、ありがたく受け取り大事にしておく。だって、信頼しているあの人がくれた言葉だから。

 

言葉だけではなく、楽しく過ごした日のことをいくつも記憶しており、心の引き出しにしまっている。

例えば、先月末に行われた「本の会」の参加者がどこの位置に座っていたかおそらく間違いなく答えられると思う。楽しかったことについては空間をそのまま映像記憶として保管していて、頭の中で上映会をはじめ、ひとりでにやにやしていることもある。他人がみたらさぞ気持ち悪いことだろう。

 

よって、特段思い出を大事にしているというより、それを糧に今の私を動かしているが答えになるかもしれない。

 

 

私は誰かの役にも立っていないし、上手に優しい言葉もかけられないけれど、「そういえば、疲れたときに甘いものを作ってくれたひとがいたなあ」くらいの存在ではありたい。

 


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ロビンソン

シャッフル再生をしていたらスピッツの「ロビンソン」が流れてきた。4月にこの曲を聴くと憂いを感じてしまう私がいる。

春の柔らかな風と桜の淡い色はいとも簡単に心を浮き立たせる。それは夏であれば花火のようでもあるし、秋であれば紅葉であり、冬ならば雪だろう。淡々と過ぎ去る日々の中で、こちらの意図とはまったく関係なくそれらは現れ、私の気持ちを浮き立たせていく。

ただ、それらはいつまでも続くわけではなく、過ぎ去ったあとの儚さと少しの寂しさに私はどうにもやるせなくなってしまうのだった。

「ロビンソン」はそのときの感情に似ているなにかを連れてくる。あの煌めきがあった日が遠い昔のように感じられ、現在の立ち位置が揺らぐなにか。土が波を打ち、足を取られそうになりながら、それでも歩かねばならず必死になる。

本当に必死な時は誰かに笑われようとも、なりふり構ってなどいられない。私が私の未来を作るのであり、あなたにとやかく言われるものではない。

強さと悲しさと儚さと。どこかで聴いた曲のタイトルみたいな多くの感情が混ぜ合わさって苦しくなってくる。それでも自分で生きることを選び、歩んでいけることは喜びだ。

あの、制限のある生活には二度と戻りたくないし、戻るつもりもない。

あのときの私と今の私はまったく別のものであるとは言い切れない。けれど同じではない。同じではないことは未来を変えることであり、きっとまだ歩けるということなのだと思う。

 

 

 

 

20240324

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何かを書き出せばそこから文字が流れていく。そう理解していても書く意欲がわかず、しばらく景色を眺めていた。

書くことを生業にしているわけではないので、ムリに書く必要もない。ただ溢れた感情と言葉の行き場を失ったときに書き留める場所があればそれでいいのだった。コップに注いだ水が表面張力をも越えて溢れだしたときと同様にしばらく時間を置くと自然に言葉が溢れていくのだから。

踊っている人々を眺め、雑踏に紛れる。映画ポスターをじっくり読んでいるひとの後ろをそっと通りすぎる。工事現場作業の合間にコンビニに買い出しに来たであろう作業服の人がペットボトルを何本も抱えている背中を見つつレジに並ぶ。ギターケースを担いでスマホをいじる男性。週末に駅チカの居酒屋で楽しそうに談笑しているサラリーマン。

私とすれ違った人々にはそれぞれの生活があり、おそらく以後も私とは関わることがないだろう。もしかしたらこのときが人生の中でその人といちばん近づいた一瞬だったかもしれない。

数年前、本などを通して知り合った方がもうすぐ遠方へ引っ越しをする。簡単な言葉が用意できれば良いのだろうけれど、何かそういう言葉ではないような気もして考えを巡らせている。もしかしたら誰かがさることに対する感傷が私は薄いのかもしれないと考えたりもする。

ずっと一緒に居てくれると言った人はことごとく去り、人は皆私を通りすぎていくものだと思っている節がある。それが流れなのだとしたら、表面だけの関係でありたいと考えてしまう。近づくのはこわい。どうせ去っていくのなら近づきたくはない。

「ずっと」なんてないのだと理解していても「ずっと」なんて言葉を持ち出されたら期待してしまう自分がきらいだ。

それでもだれかが発する言葉を信じて生きていたいと思ってしまう。ある種の自傷行為かもしれないが、やはり、未来に希望は持っていたいと強く願う私がいる。

生き方としてはおそらくド下手だろうけれど、私は自分の生き方がきらいではない。