バンビのあくび

適度にテキトーに生きたいと思っている平民のブログです。

柔らかで温かみのあるもの

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数ヶ月前の記憶が確かであるならば、例年より冬の訪れが遅かったはずなのだが、昨年とまったく同じ日に雪が降った。

移りゆく季節を肌で受け止める作業は切なくて、時折泣きそうになる。ふいに涙が溢れたら、きっと周りのひとは知らん顔してくれる。それが流れることであり、温かさだと思う。

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今年が始まって1ヶ月も経っていないが、周囲の変化が忙しくて追いつけていない。去る者と訪れる者の顔色を見つつ、自身の身の置場を探している。できれば私の姿が少しでも柔らかく映っていてくれたらと願う。好かれたい気持ちは年々薄れていくのだが、周囲の人たちを不快にさせたくはないなあと思う。

空気のような存在でもいいくらいなのだが、どうやら私は騒がしいいきもののようなので、残念ながら空気にはなれそうもない。なので、私が目指す先は柔らかで温かみのあるものなのだ。

柔らかで温かみと言えば、ふくよかであればすでに願いが叶ってしまいそうだ。

そうだ、この体型はそのためにあるのだ。

自分を納得させつつ、温かいお茶を入れ、きんつばを頬張るのであった。

ごちそうさまでした。

 

制限と自由

津示路教会で午後に開催される箱舟古本市に出店する予定があったため、午前中は礼拝に参加した。

津示路教会は日本基督教団なのだが、私が幼い頃から通っていた教会も日本基督教団の教会なので、礼拝はいつもリラックスして参加している。たいして、知人の牧師は「なんだか緊張して汗が止まらない」と話していた。私が礼拝に参加するとき、いつも牧師が緊張すると話しており、もしや私が緊張の原因なのではないかと思った。息子は「きっとそうだ」と言ったが、そうではないことを祈る。

さて、牧師は説教でノアの箱舟の数十日にも及ぶ舟の中での生活は閉塞感で溢れていた話をされていた。それをウイルスが流行し、行動制限されて苦しかった牧師の体験とともに語った。好奇心に溢れた牧師はおそらくとても息苦しかったことだろうと容易に想像できる。ただ、この話を聞いていたとき、私は共感よりもさきに、好奇心旺盛の私がそこまで苦しまなかった当時を振り返っていた。

コロナが流行し、行動が制限され始めた時期の約1年前、私は子どもを連れて家を出た。いわゆる昼逃げをしたのだ。それ以前の行動制限と明日が来ることに希望を持てず、ただ、消化するだけの日々は生きているのか死んでいるのかわからなかった。よって、コロナによる行動制限などたいして問題ではなかった。確かに行動は制限されているが、私の心は自由だったのだ。自分で掴んだ何にも脅かされることのない住居にいることはそこまで苦痛なことではなかった。あの頃、コロナが流行する前に家を出て良かったと子ども達と話していた。もしも、コロナ流行以後なら実行できなかったかも知れないと思うと……もはや考えることを放棄する。私は逃げる時期をずっと考えていたので、あの時期はある意味ベストだった。子どもの親権を高確率で得られるタイミングと年齢、そして子とともにチームとして動く役回りを決め、短時間で実行したのだ。ただ、ある意味ベストだったと語ったのは失ったものもあるので、もう少し私の勇気があれば半年くらい早くできたかも知れない。いつ刺されるかもしれない覚悟はそう簡単には持てなかった。

何にも脅かされることのない住居に住んでもうすぐ5年になる。

あんなに住みやすかったのに、5年も経つと子ども達が成長し、2LDKの部屋では手狭になってきた。物理的に狭いというより、それぞれがプライベートな空間を必要とするあまり、些細な衝突が増えてきた。家族でみられる良くある風景であり、お互いに信頼関係が築けているからこその衝突ではあったが日々をできるだけ平穏に暮らすうえで、ひとつの課題になりつつあった。

ちょうど4月から息子が社会へ出るため、この部屋から出ていく。これで課題はひとつクリアされる。私と娘のふたり暮らしになったら、また新たな課題が出そうな気もするがとりあえず今は考えないことにする。

このように振り返っていて、実に私はわがままであるかを思い知った。制限のある場所から子どもとともに逃げ、新たな城を築いたのに手狭になって暮らしづらくなり、ため息をつく。足りなかったものを得た直後は満足し、得たことに感謝するが、それが継続されることもなく馴染み、当たり前になっていく。まったくダメな人間である。

ただ、自分がそのような人間であることを自覚し、持っているものを再確認すれば、自ずと他者へ手を差し出せる気がしている。

人間ってそんなものではないだろうか。

ひとりでしか見えない景色

少し遅めの起床。これから出かける予定があるのだが、まだ寝ている子ども達用におにぎりを握る。かつて「自分のことだけを考えればいい」という日があったことを忘れ始めている。起きたらごはん、起きたら洗濯、常に生活を共にしている者のことが頭をよぎる。

それは何かに熱中していて遊んでいても、だ。

ふと力が抜けた瞬間、できるだけ早く帰ろうと思ってしまう自分がやや寂しく感じたことがある。もしかしたら、あのとき一緒に遊んでいた人は私の心内を読んでしまったかもしれない。私の寂しいの意味は多くの意味を含んでいて上手く言葉にできない。

ただ、決してあなたと一緒にいる時間が寂しかったわけではない。

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松阪へ舞台を観に行った。

主だった内容は終活詐欺だったのだが、押しつけがましくなかったので楽しく鑑賞できた。私より歳が上の方々が生き生きと演じているさまに、これから私が歩む道の道標を頂いたようだった。
観劇後、街を散歩した。ひとりで歩き回るのが好きなのだ。誰かとともに歩くのももちろん好きなのだが、ひとりでしか見えない景色がある。例えば、人懐っこい白い猫を撫でながら写真を撮っているカップルとか、道端に大きな荷物を降ろし片手をバッグに突っ込んでずっと何かを探している人とか、誰かと話をしながら歩いていたら気にも留めないような景色がそこら中に落ちている。

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駅の方まで歩き、来た道を戻る。先ほど猫を撮っていたカップルがおまんじゅうを買い、その横のベンチに腰掛けて食べていた。ふわふわとした空気が流れていてなんだか羨ましかった。

さらに歩いていたらパン屋さんがあった。入ろうか迷い、立ち止まった。するとガラリと戸が開き、顔見知りの方が出てきた。ここのパン屋さん、美味しいですよと言われ、いくつかパンを購入した。

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気になった雑貨屋さんへ寄ったあと、坂を上った。だいぶ歩いたあとなのでちょっとだけしんどかったけれど、黄色いイチョウで覆われた道は美しかった。目線をあげると寒そうな木があった。もう12月だった。

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車に戻り、移動した。

写真展を開催しているギャラリーへ行く途中、草が光を集めていた。先ほど、寒々しい木を眺めたあとだったので眩しくて仕方なかった。何かを与え、何かを欲し、いずれ朽ちていく。その過程を問われることはないのかも知れないが、私が見たものだけは覚えておこうと思う。

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写真展は写真家の知人らしき方々が多くいらっしゃって、少々場違いな気もしたが、ひとつひとつ写真を眺めていたらそんなことも忘れていた。


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私が街中を歩くときに目を留めそうな被写体が多くて面白いと感じたところで、ある写真に気がついた。写真に映されていたその被写体を私も6月にスマホで撮っていたのだ。思わず、写真家に私のスマホを見せながら話しかけてしまった。「シルエットだけで何かわかるのが面白くて撮りました」と話してくれた写真家に「私もそう思って撮りました」と答えた。私となんの接点もないひとが、ひとつの被写体で同じことを感じていたことが嬉しかった。何より、私が「ひとりでしか見えない景色」と思っていたものが実はそうではないと感じられたことが嬉しかった。