バンビのあくび

適度にテキトーに生きたいと思っている平民のブログです。

katachi-gurumiのブローチは素敵なのだ

空気が澄んでいる穏やかな日だった。

今日は菰野にあるアクアイグニスで「necomaru」というマルシェが行われると聞いて数日前から楽しみにしていた。私が大好きなkatachi-gurumiさんが出店されるからだ。katachi-gurumiさんのブローチをはじめてSNSで見たのはいつだっただろうか。少しレトロな雰囲気もある愛らしい植物や動物のブローチに魅せられ「いつか必ず手にいれよう!」と決めた。結局、昨年にある一箱古本市で手に入れることが出来た。見つけた時は「ここで買わずしていつ買うのか!」と悩みながらきのことカタツムリのものを選んだ。しばらくは毎日のように手のひらに置き、にやにやと眺めた。

それからはkatachi-gurumiさんのブローチを毎年1個ぐらいご褒美のように集められたら…などと考えていたのだが、先日katachi-gurumiさんが今年いっぱいで創作活動を終了されると知った。その時、出会いを大事にしないと次はいつ出会えるのかわからない寂しさを感じた。慌てて、katachi-gurumiさんの予定を調べたら、今日のマルシェがあったので行くことに決めた。

アクアイグニスは観光客が多く、連日込み合っているので近いながらもあまり行くことはない。久しぶりに訪れたアクアイグニスはやはり込み合っていたが、マルシェが開催されているあたりは人はいるが見て歩くにはちょうど良い空間だった。美味しそうな食べ物の横目に私はkatachi-gurumiさんを探した。

katachi-gurumiさんのテントは奥の方にあり、すでにお客さんが素敵なブローチを手に取り真剣に鏡で合わせてみたりしていた。私もブローチをひとつひとつ手に取りながらゆっくり選んだ。どれもこれも素敵で選べなくなってしまうのだが、手持ちの服は何色が多いかなどを考えながら3つのブローチを選んだ。もう在庫を置いてあるお店でしか買えないのだから、今買わなければ!と思ったのだ。katachi-gurumiさんに「少しずつ集めようと思ってたんですけど…」などと話し、どこでブローチを知ってくれたのかの質問に答えた。katachi-gurumiさんはkatachi-gurumiとしての創作は終了するけれど、何年かしたらまた何かを作るかも知れないと仰っていた。素敵な人だった。


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ちょうちょ、ギター、輪になったもの。

色もテイストも違うものを選べば服に合わせてブローチも変えられるだろう。

自分が愛しているもの、好きなものはいつまでも手に入るものではない。なのに、なんで私はあることが当たり前になると鈍感になってしまうのだろうか。閉店、終了のお知らせを受けてから駆け込んでしまうけれど、本当はちびちび購入して「あなたの作品、好きだよ」と言い続ければ良かったのだろう。

 

こどもの本の店「メリーゴーランド」で絵本を3冊購入した。メリーゴーランドもずっとそこにあってほしいお店だし、購入した絵本作家さんには今後も素敵な作品を作り続けてほしい。

 

微力ながら好きなものはここで発していこうと思う。

20181110 ~良性発作性頭位めまい症

夜。体の向きを変えたらその瞬間に世界がぐるぐる回り座ることもできなかった。

体を倒し仰向けの状態になっても回転は止まらない。目を瞑っても状況は変わらない。

「回転性のめまいにまたなってしまった」

頭をゆっくり左に向けてみる。回転はややゆるく少しだけ楽な状態であったのでそのまま眠った。

2時間くらい眠った真夜中。ふと目を覚まし無意識に頭の向きを変えたら強烈な吐き気に襲われた。慌ててベッドを汚すまいとフローリングの床に倒れこんだ。その直後に嘔吐した。カエルが鳴くように2度、3度、体を揺らした。嘔吐が止まると手を伸ばした先にあったティッシュボックスからティッシュを大量に出し、軽く床をふいた。立てる状態にないため、吐瀉物を片付けることもできない。数分そのままの状態で息を整えていたが、フローリングの上に直接横になっていたため、寒さに耐えられず無理矢理体を起こしてベッドの上にあった毛布を引っ張った。その動きによりまた嘔吐した。辛さにうっすら涙が浮かんできた。次に嘔吐する時には喉の痛みも伴った。なにも出来ないととたんに情けなくなってきた。体の向きを変えることさえできない。

朝になっても状況は変わらなかった。以前に良性発作性頭位めまい症になっていたので今回もそうだとは思うものの、前の時は半日ほどでほぼ回復したので今回も大丈夫ではないかと勝手に思っていたが、まったく治る様子がなかった。息子にコップにストローをさした飲み物を用意してもらい1日かけてちびちび飲んだ。病院へ行こうと思ったが、木曜日なのと自分で車を運転できないこともあって迷った。結局、その日は体を横たえたままで1日を過ごした。辛かったのはトイレで、その時は意を決して早足でトイレにかけこんだ。便座に座っている状態もつらく、頭を壁にもたれさせないといられなかった。

さすがに耐えられなくなり、金曜日に友人に病院まで連れて行ってもらった。着替えるのが辛かったが、2日間着続けたジャージで行くのは…と思い20分かけて着替えた。病院では待合室で座ることもできないのでベッドに直行して横になった。初診だったので症状などを書かねばいけなかったが、文字をかける状態ではなかったのですべて友人に記入してもらった。こういう時、私は看護師さんの優しさに弱くすぐに涙目になってしまう。楽な向きで良いですよ、少し暗くしておきますね、私のために向けられる言葉がいちいち心に響いてぐす、ぐすすん…となってしまうのだ。医師が状態を見にこられて、とりあえず点滴をしてもらうことになった。点滴をしている間、体が楽になって眠った。点滴を終えると、ふらふらしながらも立つことが出来た。嬉しかった。誰の支えもなく、自分一人の力で立てていることが嬉しかった。

医師に「なにか質問は?」と問われ、とにかく吐き気が酷くて…と話たら中程度以上のめまいはもれなく吐き気がついてきてしまうと言われた。

薬をもらい、友人に家まで送ってもらった。

友人には感謝しかない。

 

今日はリハビリがてら近くのショッピングセンターまで車を運転してみた。運転している時は問題なかったが、ショッピングセンターを歩き回ったらだんだんふらふらして気分が悪くなってきた。

少しずつ。

少しずつ。

自分に言い聞かせ、焦らず歩いてみようと思う。

さて、薬を飲もう。

漢方苦いからオブラートに包んで飲もう。

20181104 ~雪子さんの足音

音のない、しとしとした雨の降る中図書館へ行った。図書館へ行くのは久しぶりだった。車を駐車場にとめ50mほど先にある入り口まで小走りするか、傘をさすかで迷ったが、本がぬれても困るので傘を手にとりゆっくり開いた。玄関はぬれていて滑るため、そこだけ慎重に歩き、館内へと入っていった。特に目当ての本があるわけではなかったので、棚を端から眺め「そういえば読みたかった本」を探していく。雑誌やTwitterなどで読みたいと思っていながら忘れてしまう本が多いのでそれらを発掘するのである。タイトルでピンとくることもあれば、著者名で思い出すこともある。そういった時間を楽しみながら何冊かの本を選んだ。

 

そのうちの1冊が「雪子さんの足音」であった。

 
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雪子さんは主人公、薫が大学生時代に過ごしたアパートの大家であった。

話は雪子さんが亡くなったところからスタートする。わかりやすく言えば「火垂るの墓」のような流れだ。亡くなったところから回想し、雪子さんという世話焼きな大家との距離感の図り方に戸惑いながらも都合よく利用する若者の話だ。もう1人、アパートに住んでいる小野田さんとの距離も微妙であるように思え、アンバランスで奇妙な話のように思えた。それぞれが孤独でどこかで誰かに繋がりたい思いと、裏には個々の思惑があるのが透けているのが心地悪いような、それでも読んでしまうような話であった。

 

映画化が決定しているようなので、映像でどう表現されるのか興味深い。

 

「雪子さんの足音」予告編 映画祭告知入り

 

 

今日Twitterでこのようなツイートを目にした。

ああ、私は搾取される方だとすぐに思ったのと同時に、自分が大変と主張する人と相手を慮るあまり搾取される人とどちらが生きやすいのだろうと考えた。

「世の中にはあなたより大変な人はたくさんいる」

この言葉はまったくその通りなのだけれど、それだけを思っていると自身がつぶれてしまうのではないかと思う。「自分の方が絶対に大変」ばかりを主張するのはどうかと思うが、時には必要なことであり、愚痴をこぼす必要性を感じる。けれど「相手の方が大変」と考える思考の持ち主は愚痴さえも「相手に負担をかける」と思ってしまうのだな、これ。そういうただ愚痴をこぼせる相手って近しい人じゃない方が良い場合も多くて、そういった言葉がTwitterなどに流れてくると「よしよし、もっと言ったらいいよ!」と思ってる。

言葉にすると気持ちが整理できることもある。

私のブログでそうであるように。

 

 

雪子さんの足音

雪子さんの足音