バンビのあくび

適度にテキトーに生きたいと思っている平民のブログです。

20200207


f:id:bambi_eco1020:20200207233900j:image

会社に出入りしているお弁当屋さんのおばさんに「お姉さんはいつも違う耳飾りをしているのね」と話しかけられた。

「毎日、気分で変えているんです」

「そういうのもいいわね」

うつむいた心が明るさを取り戻すには時間が必要かもしれないけれど、私にできるささやかなことは日常としてこなしている。

 

以前、寺尾紗穂さんにメールをしたと書いたけれど、今もやりとりを続けている。

「またいつでもメール下さい」

社交辞令かもしれない言葉に甘えて、気持ちが保てない時などにぽつぽつと言葉を並べて送っている。

現在、流行しているウイルスの話をすることもあれば、今後の予定を尋ねることもある。寺尾さんの歌声を聴くとき、文章を読んでいるときは「すごい、すごい」と雲の上の存在に感じているのに、寺尾さんとメールのやりとりをしていることをすごいとは思っていない私がいる。あとから冷静に考えればすごい!とはなるけれど、言葉を発しているときは私の話を聞いて下さる人であり、一個人として認識しているようだ。そういうのもきっと縁であったりするのだろう。

近くにいても遠く感じる人がいるように、遠くにいても近くにいる、または近づいてくる人もいる。

肩がぶつかる程度で出会う人達の多くはいずれ離れていくだろう。

当たり前を受け入れて、それでも尚、良き関係を保てる人が存在するならば、きっと私はその人を信頼しているのだと思う。

 

 

 

20200128

めそめそ泣いてばかりいたら、奥二重だった目が二重になった。

昔は体調が悪くなると二重になったりしたものだけど、今の私は心の調子が悪いのだろう。

何度も繰り返す「立て直し」にやや疲れてきた。行ったり来たり。出口がどこかわからずにぐるぐる回っているだけの気がして、自分の尻尾を追いかける犬を想像したら少しだけ楽しくなった。

気持ちが上がっていけるかわからなくなった時は、あまり考えずに料理を作り、気持ちを落ち着けることがある。ちょうど地場野菜を安く手に入れたので、いろいろ作ってみた。 

f:id:bambi_eco1020:20200128161108j:plain

 もつ煮、きんぴらごぼう、ねぎぬた、ベーコンとブロッコリーのマヨマスタード和え、ロマネスコ

ロマネスコは高くていつも手が出ないので指をくわえて見てるだけだったけど、この日は見切り品で安くなっていたため即購入。レンジで蒸しただけで美味しい。前日に購入しておいたブロッコリーも蒸したのだけど、それだけじゃ楽しくないので、マヨネーズと粒マスタードで和えてみた。「〇〇さんのねぎ!人気です!」と書かれたポップがついていたねぎは蒸してから酢味噌だれとあわせてねぎぬたに。酢味噌はみりんや酒なども入れて、一度火にかけているので、酢がややまろかになってて良かった。きんぴらにはブロッコリーの茎も入れた。もつ煮は大根が安かったから。この他にごはんとみそ汁。

料理をしているあいだは、工程と味付けを考えることに集中するので、余計なことを考えずにすむ。

ちゃんと食べて十分な睡眠をとる。生活をするうえで欠かせないことだけは忘れてはいけないと思う。

 

***

ソン・ウォンピョン『アーモンド』を読んだ。

 

f:id:bambi_eco1020:20200128162552j:plain

 惹き込まれて一気に読み終えてしまった。主人公、ユンジェはアレキシサイミア(不感情症)のため、怒りや恐怖、喜怒哀楽の感情がわからない。母はユンジェにそれぞれの感情を丸暗記させるが、歳を重ねるごとに皆の感情が複雑化するためだんだんとついていけなくなる。ある事件が起きたり、その後ゴニという男の子と知り合ったりする中でユンジェにも変化が現れる。

私が持っている感情の1つ1つを思い出しながら、感情のあるいきもので良かったと思えた。

「感情があって良かった」とわかっていても、弱い人間なので時々感情に押しつぶされて「感情がなければいい」と考えてしまうことはある。でも、感情があるから、楽しいこともあるし、喜びも感じられる。

 

どうにもならない感情と上手くつきあいつつ、楽しいことに目を向けること。簡単なようで難しいけれど、「時間がいちばん優しいですね」と言ってくれた人の言葉を心に留めて日々を過ごしていこうと思う。

 

 

アーモンド

アーモンド

 

 

『よかった探し』

写真を破られたことがある。

目の前で破られたわけではなく、破られた写真が見えるようにごみ箱の中に捨てられており、ご丁寧にも私の顔は縦半分に引き裂かれていた。

悲しいとか辛いなどの言葉すら出てこなかった。ただ、喉の奥が少しずつ、少しずつ締まっていくようで呼吸をするのが苦しかった。

写真を破ったことは私の行動が気に障ったためと推測する。

人には得手不得手があり、それらをお互い認め合って社会は成り立つものだと思っている。自分のことは棚に上げ、勝手に優位に立ったと考える人はそもそも健全なコミュニティを形成する気すらないのだろう。

  

子どもの頃、テレビで放送されていた世界名作劇場を観るのが好きだった。フローネもルーシーも好きだったし、トムソーヤに至っては再放送がよく流れていたこともあって、何度観たか数えられない。そのシリーズアニメの中に「愛少女ポリアンナ物語」があった。ポリアンナはどれだけ苦しい状況でも「よかった探し」をする少女だった。「よかった探し」はどれだけ辛いことが起きても、その中からよかったことを探して、明るく生きるゲームである。私はこの「よかった探し」にとても影響を受けた。以後、今日に至るまでずっと「よかった探し」をしていると言っても過言ではない。

生きていれば、良いときも悪いときもある。それらは操作できるはずもなく、いつも突然やってくる。「ちょっとちょっと!まだ悪いことを受け止めるだけの心の準備ができてないよ!」って時でもお構いなくずかずかと土足で踏み込んでくる。心は苦しさで押しつぶされそうになり、落ちるところまで落ちる。けれど、そこで「よかった探し」をすると、私のことを気にかけてくれる人の存在に気づけたりする。気持ちが落ち込んでるときは自分しか見えなくなる傾向にあるが「よかった探し」はあえて周りに目を向けることで、自分を見直すことができるように感じている。

「今日買い物したお店のレジの方は手つきが鮮やかで良かった」

「お母さんが重そうに荷物を持っていたら1つ持ってあげる子どもを見かけた。優しい行動で良かった」

自分が良かったことを探すことが困難な場合は、そんな、ささやかな「良かった」を探せればいいと思う。

よかった探し」を継続している中で、同時に「よいところ探し」もするようになった。「よいところ」探しは出会った人のよいところを1つ以上見つけるゲームで、私が勝手に命名し、行っている遊びである。幼い頃、母親に「誰でも良いところはあるのよ。しっかりと相手を見ること。」と言われたことがきっかけとなっているかもしれない。

誰でも良いところはある。探せばいくらでも出てくる。「よいところ探し」をすると、その時は怒りがあったとしても、後々まで尾を引くことがなくなった。人に対する不満も少なくなった。

生きていくことは大変だ。だからこそ、自分が少しでも生きやすくする方法を探していきたい。これからも「よかった探し」「よいところ探し」は続けていく。

 だから、私が笑っているときは「よかったことが見つかったんだろうな」と思ってほしい。