東京駅から地下鉄に乗った。
東京の地下鉄は何度乗っても乗り換えがわからなくなる。いや、「わからなくなる」は正しくなくて、実際には「覚えようとしない」かも知れない。
トウキョウの地下にはたくさんたくさん穴が掘ってあって、その穴の深さも様々で、それを不思議と思わず当たり前のように過ごす日々は無機質だと思う。良くも悪くも。
生暖かい空気がまとわりつき、息苦しさを感じながら地下鉄に乗った。
乗り換えは電車が好きな息子が全て知らせてくれる。娘はやっと手が届くようになった吊り革につかまり、ちょっとだけ大人びた自分に酔いしれている。
建物の景色はない地下の中。
稀に聞こえる警笛は地上より鮮明に聞こえる気がする。
地下鉄を1度乗り換えた。
地下鉄の乗り換えはものすごく歩かされる時があるので、降りてから「さて、どうだ!?」といつもグイッと前を向く。どこまでも延々と歩かされるのであるなら、風景が変わればもう少し楽しめるのにと思う。
細かく言えば、少しずつ違うのはわかっているけれど、赤い屋根の家があるとか商店の店先にこんなモノがあるとかそんな視覚的変化があればきっと距離が短く感じると思うのだ。
そんなことをグズグズ考えながら、次の地下鉄に乗り、目的地へ到着した。
地下から地上へ向かう階段をのぼる。明かりを目指してのぼっていく。地下から地上に這い出る虫の気持ちになって。なんだろう?セミかな?
私の方がセミより長生きだけどさ、そこは目を瞑ってよ、ねぇ?
地上はムワッとした空気が足元から感じられ、じっとりと暑かった。
アスファルトで覆われた都会は土のニオイはなく、どこにも逃げられない暑さばかりが彷徨っていた。
一歩一歩、汗が噴き出るのを感じながら進んでいく。
「お母さん、今、なんか音がしなかった?」
娘が突然、私に話しかけてきた。
この雑踏の中で聞こえる音。それは車の音、人々の歩く音、話し声…あと何かあったっけ?ねぇ、娘よ。
「ほら、"ちりん"って聞こえるよ!」
暑さと眩しい太陽のために下向きであった視線を上にずらすと、とある書店の軒先にガラスの風鈴がかかっていた。じっとりとした暑さの中でも少しばかり風が吹いていたので、その風に揺られ「ちりんちりん」と風鈴は音を響かせていた。
忙しく歩く人達の中で、どれほどの人がこの風鈴の存在に気づいたかはわからないが、そんなことはお構いもなく風鈴は「ちりんちりん」とただ風に揺られていた。
子どもと足を止め、しばし風鈴の動きを眺めていた。
ちりんちりん。
短冊がひねったり、くるくるしたり楽しそうに踊っていた。
ちりんちりん。
周りのことを気にせず、ただそこで自分が出来ること。「涼しい音を響かせること」を全うしている風鈴は素敵だと思った。
私の中には様々な感情が日々、ぐらぐらと揺れていて、とても危うい。
人には感情があって、それは時に優しく、時に刃物のように切りつける。他者からだけではない。自分自身に向かうことだってある。
感情のコントロールが出来れば問題ないのかも知れないが、誰しも常に保てるわけじゃない。
深く考えず、もっとシンプルに。
自分がすべきことだけを考えていたい。
視覚的変化は景色だけでなく、自分の感情で大きく左右されることを忘れてはいけないと思った。