いつから雨が降っていたのだろうか。
昨夜、眠りについた時には雨音はしなかったのに、朝起きてみると物干し台から雫が落ち、植木から飛び出た葉がきらきら光っていた。そういえば、最近6時前から蝉の声が聞こえていたが、今日はもう少し遅かったような気がする。
蝉もわかってるんだ。雨音が響く時に蝉の声は響かないということを。
ぎらぎらした太陽のもとで蝉時雨が降りそそぐ。
「蝉時雨」は蝉の声を時雨の降る音に見立てて使われているのだが、音ではなく蝉が時雨のように降ってきたら・・と想像しただけでぞわっとする。肩にもバッグにも蝉が張り付き、足元一面、蝉だらけ。蝉がコロンと転げている様をよく目にするが、地面にびっしりだったらそりゃあ怖い光景であろう。
先日、娘が転げている蝉を見て「お母さん、蝉って死ぬために生きているみたいだね」と言った。その言葉の意図は「蝉は長い間、土の中にいるのにこうやって鳴いている期間はものすごく短くてすぐに死んでしまうんだよ」と私が説明したところにあるのであろう。
蝉にとって土から這い出て、人間や他の生き物、それから同じ蝉達にアピールできる期間はとても短い。けれど、寿命が短いのかと言えばそうでもない。蝉は土の中で何年も生きているのだ。
何年も何年も土の中でその時を待ち、いざ外の世界へ出たら1カ月も持たずに死んでいく。蝉はパッと咲いた花火のようにきらびやかで豊かな人生を送っているのではないだろうか。
「死ぬために生きている」は何も蝉に限ったことではなく、結局みんなそうなのではないかと思う。生きとし生けるもの。いつかは死んでいくのだ。
ここに「蝉時雨」と書くにあたり、そもそも「時雨ってなんだ?」と調べなおしてみたら「時雨」は俳句で冬の季語だと書かれていた。
対する「蝉時雨」は夏の季語。
燦々と照りつける太陽の下、じっとりとした汗をかきながら「蝉時雨」を感じれば、冬の日にぱらぱら降るみぞれ混じりの「時雨」が瞼の裏に現れるであろうか。
最近は少々暑すぎるため、目を瞑り、音だけに集中しすぎるとそれだけで倒れそうだ。
私がもしも瞼の裏に時雨を見る時があるならば、それはヒグラシが盛大に鳴き始める頃になりそうだ。