バンビのあくび

適度にテキトーに生きたいと思っている平民のブログです。

私の父の話「4」

この文章は『私の父の話「1」「2」「3」』の続きである。

私の父の話「1」 - バンビのあくび (hatenablog.com)

私の父の話「2」 - バンビのあくび (hatenablog.com)

私の父の話「3」 - バンビのあくび (hatenablog.com)

***

息子が3歳になる前に、夫の都合で三重県に引っ越しをした。実家が遠方となり、両親に会えるのはお盆と正月の年2回になった。

帰省すると父は嬉しそうに子ども達の写真を撮った。子ども達が若干飽きて、撮られていることを意識しなくなり、自然体になった頃の写真がなんだか良いなって思った。

ある時、母から父が脳梗塞になったと知らされた。お釣りがわからなくなったのを不安に思い、病院へ連れて行ったところ診断が出たとのことだった。年に2回程度しか顔を合わすことがない私の名前はわりと早く呼ばれなくなった。私が父にとって家族であり、大事な人である認識はあるようだった。私も父の笑みからそう感じているとわかっていたが、名を呼ばれることはもうなくなるかもしれないと思うと悲しくなった。

父は少しずついろんなことを忘れていった。散歩が好きで勝手に家から出て行ってしまうことが増え、母を困らせた。お風呂から出た後、新しい下着と脱いだばかりの下着を2枚着て、脱がせようとする母を拒み、困らせた。意思を言葉で伝えることが難しくなり、力で押さえつけることも出てきた。

遠方に住んでいる私は何の役にも立てなかった。ただ、電話で母の話を聞き、そろそろ考えないとね、ってそればかりを繰り返した。

母の疲れがピークになってきた頃、父の入院が決まった。私はとてもホッとしたが、母は家が好きな父を入院させたことに罪悪感を持っているようだった。私と兄は「お父さんは散々楽しく暮らしてきたよ。何も心配ないよ」と母に伝え、母は「そうよね」と寂しそうに言った。

父の行動を見守ることから解放された母は回転性のめまいを起こしたりした。以前から、回転性のめまいがあった私は、母を見て「私のめまいもストレスだったんだな」と思えた。客観的にモノをとらえてるようで、当事者は何もみえていないのだと感じた。

私は父の面会へ行く機会を心待ちにしていたが、ウイルスによる世の中の変化により、私は一度も父の面会に行くことが出来なかった。

弱っていく父を知っている母と兄、それを知らない私とのあいだには見えない何かがあるような気がしている。私自身、離婚調停などで心が疲弊していたこともあり、母と兄は私を気遣ってくれていた。父はきっと最後まで私と私の子ども達が穏やかに暮らせる日を願っていたことと思う。私はお父さんに会って「穏やかに暮らせているよ」と伝えたかった。今、これを書いていて涙が頬を伝ってきたので、これが私の本心であることは疑いようがない。

子ども達と笑っている姿をもっと見せてあげたかったし、一緒に笑いたかった。私の知っている父は穏やかで楽しくてとても優しく、誠実な人だ。これは変わらない。

映画を観てすぐに泣いてしまうのが可愛らしかった。

欲しいものを手に入れるとすぐに見せにくる無邪気さも可愛らしかった。

父が死んだと知らせを受けて、私は実家へ向かった。冷たくなった父は生気がなく、蝋人形のように見えた。入院期間中に髪の毛が伸びたため、私が知っている父のようには思えず、誰が横たわっているのだろうと思った。

実感のないまま、葬儀を迎えた。葬儀で賛美歌を歌っているとき、ぽろぽろと涙が零れてきた。賛美歌には心を開放する力があると感じた。「賛美歌歌っちゃうとやっぱりダメよね」と母は涙声で言った。

何年も会っていなかった親族や知人が父について語っている。私が知っている父と私が知らない父が混在していて、いったい誰の話をしているのだろうと遠くを眺めた。

葬儀、火葬場で、私の息子と娘がよく動いてくれたらしく、知人の方にお褒め頂いた。私はちっとも子ども達の動きを把握していなかった。

私は心がココにいなかった自分を見つけた。

 

私の名前は父がつけた名前だ。母は「子がつく名前が良い」とだけ父に伝え、父が考えてくれた名前だ。母がクリスチャンなこともあり、時々教会の方からある都市名からとった名前なの?と尋ねられることもあったが、父がそんなことを気にしたはずもなく、それは偶然だった。

母がよく話してくれた。私が産まれたとき、父は嬉しそうに「オレに似て美人だ!」と叫んでいたそうだ。おそらくただ顔の赤いサルみたいな顔をしていた私を「美人」と言ってしまうあたりが、親バカであり、愛するべきところだ。

私が小学生くらいの頃、父方の伯母が「えこちゃんは私の母さんに本当によく似ている」と言っていた。

どうやら私は父の母に似ているらしい。

 

私の父の話「3」

この文章は『私の父の話「1」「2」』の続きである。

私の父の話「1」 - バンビのあくび (hatenablog.com)

私の父の話「2」 - バンビのあくび (hatenablog.com)

 

***

私の父は新聞配達の仕事で真夜中に起きている生活が習慣になっていたこともあり、休みの日でも真夜中に起きていることが多かった。真夜中は暇なため、父はテレビを観るのだが、そんな時間にやっている番組は通販番組ぐらいしかなかった。「真夜中」と「通販番組」。この最高の組み合わせにまんまと父は引っ掛かり、よく通販で買い物をしていた。朝起きると寝ぼけている私の耳に「……買っちゃったよ」の言葉が飛び込んでくる。掃除機、製麺機、包丁セット……たくさんのものを買った気がするが、中でも調理器具が多かったように思う。

父は食堂の仕事をしているときに調理師免許を取得していたため、料理が上手だった。丼ものや炒め物、餃子などは母より上手かった。母が不在の時に親子丼やかつ丼を作ってもらったこともある。父の一番の得意料理は炒飯だった。父が作る炒飯はぱらぱらとしていて卵、ねぎ、その時冷蔵庫にあるちくわやハム、刻んだ紅しょうがが入っていた。

父は酔っぱらって帰ってくるとき、度々、テレビ番組の格付けチェックでやっているように、ドアをちょっと開けては閉めた後、違うドアから登場した。最初は笑っていたが、年齢を重ねた私達きょうだいは冷ややかな対応をするときもあった。父はややしょんぼりしていたのだった。

 

私は高校を卒業した後、ピアスをつけたいと思い立った。念のため、母にその旨を伝えると「好きにしたらいいわよ。とりあえずお父さんにも言っといたら?」と言われた。その言葉を守り、父に「ピアス開けてもいい?」と尋ねると父は「いいよー」となんとも軽い返事が返ってきた。

別に反対されるとは思っていなかったが、なんとなく怪しく思い、「ねぇ、お父さん……ピアスってわかる?」尋ねると「なにかわかんないけど、いいよ」との返事。

あー、やっぱりわかっていなかったんだと思いながらピアスが何のなのか説明すると、理解したうえでオッケーしてくれた。父は私を全面的に信頼してくれてるのか、私の行動を制限したり、反対することをしない。「えこが良いと思うなら、それでいいよ」

それは私が私でいられる最高の言葉だった。

 

父は60歳頃から写真を撮ることが趣味になった。

最初は花や鳥、風景などが多かったが、私に子どもが産まれると子どもの写真を喜んで撮るようになった。

私の息子は父にとって初孫であったため、公園へ連れて行っては写真を撮り、家でジュースをこぼしては写真を撮り、さまざまな場面の写真を撮ってもらった。その中に私が息子と一緒にローラー滑り台を滑っている写真がある。私は写真を撮られるのが苦手なのだが、この1枚はとても気に入っている。

とても自然に笑っている私と息子がそこにはいた。これが父の目がとらえたわたしたちの姿なのだと思うと、とても守られているようで、柔らかい気持ちになった。

 

***


f:id:bambi_eco1020:20210908211106j:image
私が再現した父のチャーハン。

ここまでを私の父の話「3」とする。続きは近いうちに。
 

私の父の話「2」

 この文章は『私の父の話「1」』の続きである。
***
 
幼稚園に通っていた頃、私は父とお風呂に入ることが多かった。父とお風呂に入ることは嫌いではなかったが、唯一父に髪の毛を洗ってもらうのが嫌いだった。父は風呂椅子に自分が座ると、自分の膝の上に私の頭がくるように仰向けに寝かせ、頭を洗うのだ。この体勢がわりときついのと、顔に水がめちゃくちゃかかるのが嫌だった。けれど、一生懸命洗ってくれる父に悪くて言い出すことはしなかった。
 
ここで、父の職業であった新聞配達について触れておこうと思う。
どこの販売所もそうであったのか、また新聞社によっても異なる可能性があるため一概には言えないが、私が知っているかぎり新聞配達はわりと過酷だと思う。
父はたいてい、日付が変わる頃に起き、真夜中の1時くらいに仕事へ向かっていた。広告等の折り込みを新聞にセットし、それから配達を始める。帰宅は朝6時過ぎ。遅くても7時前だったと記憶している。ここで不着(新聞が届いていない)の連絡があれば、再度でかける感じだった。父はきっちりした性格だったため、不着連絡は少なかった。子どもの頃の私は「ふちゃく」が「不着」だとわからなかったので、なんだかくちゃくちゃした言葉だなあと思っていた。
朝の食事を終えた父は8時過ぎから眠る。そして12時過ぎに起きる。起きると駅へ向かう。夕刊が電車で届くからだ。父は時々、駅で立ち食いそばを食べた話をしていて、それが最高に羨ましかった。夕刊を配り終えて帰宅するのは18時過ぎ。よって、夕飯は家族で食べることができた。食後にお風呂へ入り、就寝。だいたい20時頃だったと思う。遅くても21時。これが毎日続く。
私は眠るのが大好きだったので、父のまとまった睡眠が毎日2回に分けられるのが驚きだったし、すごいと思っていた。
新聞配達は各家ごとに契約の期間が異なるため、月が替わると新聞を入れる家も変わる。よって、順路帳なるものが必要になる。今はきっと良い方法があるのだと思うが、当時父は順路帳を毎月手書きで書き換えていた。この順路帳には新聞を入れる順番通りに新聞契約者の名前が書かれているわけだが、それと一緒に記号が書かれていた。私はその記号を見るのが好きで三軒隣などを覚えたりしていた。一番好きな記号は「ハム」だった。(はす向かい)
当時も新聞休刊日は存在していたが、通常の新聞休刊日は「朝刊がお休み」なだけで夕刊の配達は休みではなかった。よって、完全に新聞の配達がない日は1年を通して1月2日だけだった。今となっては「父って何連勤してたのだろう!」と驚いている。(平成に入ってきた頃から順番に休みを取得するようにだんだん変わってきたようだった)
父は販売店の配慮で、家族旅行ができるお休みだけは毎年もらっていた。夏に2泊3日程度で家族旅行へ行くのが通例で場所は8割方伊豆だった。海なし県育ち、海なし県住まいの父にとって、海への憧れは大きかったと思う。ちなみに伊豆でない時は新潟だったり、親戚が住んでいた福島だった。
「伊豆へ旅行」と言っても伊豆は広いため、その年によって東伊豆、南伊豆、西伊豆と色んな場所に宿泊した。私は東伊豆ほどメジャーではない西伊豆が好きだった。海と山の両方楽しめる地形と、ベンケイガニがたくさん見られるのが良かった。伊豆では観光地に行ったり、釣りや海水浴をした。私が一番覚えているのは民宿に泊まった時、部屋に食べかけた「たけのこの里」を置いて出かけたら、帰宅したときに「たけのこの里」に向かって壁の端からありの行列ができていたことだ。楽しいこともたくさんあったと思うが、記憶なんて所詮そんなもんだと思っている。
 
父の話に戻るが、そういった生活をしていたので夕ご飯は家族みんなで仲良く食べることが多かった。うちは父を筆頭によく笑う家庭だったのだが、当時、兄の友達が遊びに来ていた際、「この家の笑い声は、一回外に出た音が跳ね返って聞こえてくるみたいだ」と言っていた。ご近所はさぞうるさかったことと思う。私はずっとどこの家庭もそんな感じだと思って生きていたが、そうでもないのだと年齢を重ねるごとに気づき始めた。
 
父は兄と私を平等に扱う人だった。
父は家電が好きで中でもオーディオ機器が大好きだったため、アンプやスピーカーが複数個あった(今も探せばあると思う)。父がそれを兄に譲ったとき、兄に与えて私にないのは不公平だと思ったらしく、頼んでもいないのに私にミニコンポを買ってくれた。兄に何かを与えると必ず、私にも必要かと声がかかり、与えようとしてくれる。それは大人になり、結婚しても変わらなかった。
 
そして私は父に叱られた記憶がない。私が特段、良い子であったわけではないと思うが、子どもに過度の期待をしない人であった。「健康で笑って暮らせるのがいちばんいい」
と言い、子どもを一個人として尊重してくれた。
子どもの勉強にはあまり感心がなく、自分がすべきことは子どもが行きたいと言った学校に行かせてやるだけのお金を用意することだと思っていた節があった。兄や私が高校に合格しても偏差値などはまったく気にしていなかったし「行きたいところに行けて良かったね」という雰囲気であった。私達が進学する高校名を周りの人に話し、「なんかさ、○○(兄の名前)が行く高校って頭いいんだねって言われちゃったよ」と人に言われて初めて知り、嬉しそうにする人だった。
私はそんな単純明快であり、気持ちを表現できる父は良いなあと思っていたんだ。
 
***
ここまでを私の父の話「2」とする。続きは近いうちに。