バンビのあくび

適度にテキトーに生きたいと思っている平民のブログです。

私の父の話「1」

先月、父が死んだ。

1ヶ月が経ち、その間いろんなことを思い出していたのだが、そうしているうちに父のことを言葉にして記しておきたくなってきた。だから、父のことを書こうと思う。
このブログを読んでいる人の大半は私の父を知らないので、クローズドな日記にでも書けばいいと思われるかも知れないが、私はあえてオープンな場に残したいと思った。
ウイルスによる感染症により多くの人が命を落としている世の中で、私は亡くなった人々を数字でしか見ることができない。けれども、ひとりひとりに生きた現実があり、関わった人たちがいることを思ったら、世の中は多くの「ただの人」で成り立っていることを感じた。
なので、著名人ではない、所謂「ただの人」であった父のことを書くことにする。
 
父は5人兄弟の末っ子として生まれ、早くに母を亡くした。(姉、兄、兄、兄、の構成。5人兄弟は同じ母親から産まれた人数であり、異母兄弟は何人いるかわからないらしい。というか、時代背景や祖父の色々があり、誰も異母兄弟の人数がわからなかったともいえる)
その後、迎え入れた継母には幼かったこともあり、よく懐いたらしい。お世話のほとんどは女中さんがしてくれたような家だったので複雑な家庭環境の部分もあったようだ。
 
私が聞いた幼い頃の父のエピソードで大好きなものがある。
それは少年であった父がおやつのコッペパンを持って散歩をした時のことである。父が住んでいた家の近くには映画館があった。その日、映画館に掲げられた映画絵看板がとても素晴らしかったため、父は立ち止まって看板を見上げていたそうだ。しばらくして異変に気づいた。なんと手に持っていたコッペパンが犬に齧られていたのだ。父はおやつがなくなったことがとてもショックだったため、コッペパン(私が知っている父の好物は山崎製パンスペシャルサンドだった)を食べるたびにそのことを思い出すらしい。食べ物の恨みは怖いなと思った。
 
祖父は手広く事業をしている人であったため、高校は選ぶでもなく商業へ行き、そのまま家業を手伝うことになった。のちに、それぞれが家業を引き継ぐ形になっていく。姉は嫁いだが、一番上の兄は料亭(のちに食堂となる)、二番目の兄は肉屋、三番目の兄は牧場(祖父は馬が好きだったため、馬牧場を持っていた)、そして次は末っ子の父になるのだが、父に何かを与える前に祖父は亡くなった。時々、父だけ何ももらえなかったという話になったこともあるけれど、「だからこそ自由な生活が出来たから良かったよ」と両親は笑いながら話していた。
 
父と母の出会いについて聞いたこともある。母は当時、駅近くの喫茶店でアルバイトをしていたのだが、そこを訪れた3番目の兄が父に「あの喫茶店で可愛い子がアルバイトをしているから一緒に行こう!」と誘った。父は3番目の兄とともに喫茶店へ行き、母を気に入って何度も通いつめたのだ。後に、お付き合いをすることになると、今度は父は母の家に通いつめたのだった。今は亡き、母方の祖母が話していたが、父は母が不在の時でも家に来たので「何しに来てるのかしらと思ってた!」と笑いながら話していた。そんなとき父は祖母と世間話をしてそのまま帰っていったという。
 
晴れてふたりが結婚することとなった。結婚する場所は一番上の兄が引き継いだ料亭だった。(この料亭、私が物心ついた頃には建物はあれど、すでに使われておらず、足を踏み入れるのが少々怖かった。人気のない広い場所は子どもだった私には恐れが多かった。唯一、ヤモリに良く出会えるのだけが楽しみだった)
結婚後も父は家業である料亭(後に食堂)の仕事をしていたが、私の兄が産まれることになり、ミルク代ぐらい稼ごう(家業手伝いのため、給料が安かったらしい)との理由から、副業として新聞配達を始めた。父は新聞配達の仕事に慣れてくると、こちらの仕事一本でやっていこうと決めた。
新聞配達の仕事は父にはとても合っていたようで、生涯続ける仕事となっていく。
 
私の記憶にはうっすらとしかないが、3歳までは何軒が続いている借家に住んでいた。両親は結婚し、この借家に住み始めた。一緒に暮らし始めて母が驚いたのは、父がお風呂へ入るとき、廊下にお風呂場まで続くように1枚ずつ服を脱ぎ捨てていたことだった。母は1枚ずつ拾って歩いたらしい。この話を聞いたときは笑ったが、母はたまったものではなかったかもしれない。
借家は古く、隣の家とつながっているネズミの巣があった。ある日、父が即席ラーメンを作り、ちょっと席を外したら、ネズミがラーメンを食べていたらしい。さすがにこれはダメだと隣の家と協力し、一緒に穴を塞いだ。父は即席ラーメン(主にサッポロ一番塩ラーメン)を食べるとよくその話をした。食べ物の恨みは怖いなと思った。
 
私が3歳のとき、家を建てたため引っ越しをした。この時から母方の祖母と同居するようになった。父と祖母は良く言い合いをしていた。最初は仲が悪いのかと思っていたのだが、そうでもないらしかった。血が繋がっていない祖母と父が気兼ねなく言い合いができるのは、ある側面においては仲が良かったと言わざるを得ない。父は実の母親の記憶がほとんどなかったため、祖母を「母」として受け入れる気持ちが強かったようにも思う。例えば、「歩くのが大変だから歩行介助になる手押し車が欲しい」と、祖母が話した時、迷わず値段が高めの、イスがわりに休むこともできる手押し車を買ってきた。「起き上がるのが辛いからベッドが欲しい」と話した時も同様に、ボタンひとつで上半身が起き上がるような、介助付ベッドを購入した。先にも書いたが、父は新聞配達を生業としており、裕福な家庭ではなかった。それでも必要であればと、迷うことなく祖母のためにモノを購入する父は優しい人だと思った。
 
私と兄が小学生の頃、父はよくカブトムシ捕りに連れていってくれた。これはもう時効としてもらいたいのだが、新聞配達用のスーパーカブに3人乗りをしていた。父が運転、兄は新聞が置きやすいように平たくなっていた後部座席に座る。それで私はいったい何処に乗っていたかと言うと、カブを運転する父が足を置くステップの前に跨がって乗っていたのだ。これは間違ってもマネをしないでもらいたい。体育の成績がほぼオール5であった私の平衡感覚が生かされていたと言っても過言ではない。地面が近く、度胸も試される。もちろん、田舎道をテッテッテとゆっくり走っていたし、父の膝は私を支えようとしてくれていたけれど、今思えば危険極まりなかった。さて、カブトムシ捕りだが、樹液の出ている木を見つけて捕ることもしたが、いちばん簡単だったのは梨畑の周りに張り巡らされていたネットに引っかかっているカブトムシを捕る方法だった。果物の甘い香りに誘われたカブトムシがだいたい何匹か引っかかっていた。クワガタも捕った。かみきり虫、タマムシも捕まえた。カブトムシ捕りの他に川に仕掛けをして、タナゴを捕ることもした。家の水槽にタナゴを入れるとひらひら泳いだ。タナゴの七色に光る胴体がひらひら動くことでとても綺麗に見えた。
 
 
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私の父の話。
長くなりそうなのでとりあえずここまでを「1」とする。続きは近いうちに。