バンビのあくび

適度にテキトーに生きたいと思っている平民のブログです。

笑顔でさようなら


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小冊子『murren』vol.25 「ネパールの音」を読んだ。壮大な自然とそこで生きる人達の話は遠くのことのようでいて、自分の身近に落ちている話であるような気がした。おそらく、世界のどこであっても「今日を生きている」ことが共通しているからなのだろう。

この本に「石のチョータラ」という話があった。チョータラは石造りのベンチのことで、たいていはスレートのような薄い石を積み上げて造られている。チョータラは村で財を成した老人が造るもので、その人の死後は◯◯さんのチョータラと呼ばれて、皆が休む場所になるそうだ。著者は「自分が死んだ後に隣人の役に立つものを遺すという考えがいい」と思ったようで、私も読みながら賛同するように頷いていた。

 

母と時々、電話で話をしている。元々、頻繁に連絡を取り合う感じではないのだが、お互いに話さなければいけない事が多くなった。

「No news is good news」

そういうことだ。

入院している父が要介護認定1だったのが、要介護4になっていると母は言った。

「だからもう、お父さんはお家に帰れないと思うわ」

母は平静を装っていたけれど、電話ごしにも心の揺れが感じ取れてしまった。母以上に、何事もないふうを装って話す私の言葉から、母も何かを感じ取ったに違いない。

親の老いを感じるとともに、母の状態を気にかけてしまう。そんな母は私の現在の状態を気にかけている。

「そっちはどう?わたしはなんとか」

この言葉にそのすべてが凝縮されている。

 

以前にも書いているが、父が私の名を呼ぶことはおそらくもう、ないと思う。

そのことは私を寂しい気持ちにはさせないが、私がずっと引っかかっているのは、父の記憶の最後にある私が笑顔だったか、である。

母と話をする中で考えていたのだが、父の記憶が曖昧になった頃は、私だけではなく息子もだいぶ辛い状況にあった。当時、中学生だった息子は私の実家に帰省したあと、ひとりで電車を乗り継ぎ、家へ帰ってくる予定だった。だが、その前日の夜から「家に帰りたくない」と泣いた。当日も、同じような状態が続いており、父は「かわいそうだ」とともに涙を流していたらしい。母はそのまま帰さない選択もあったけれど、すべてを私に委ねてくれた。

息子に「お母さんが心配するからとりあえず帰りなさい。そこからまた考えればいい」と話してくれたようだ。私は本当に息子が帰ってくるのか心配で堪らなかったが、それよりも息子への申し訳なさで胸が締めつけられる思いだった。その後のことは、今のわたしたちの状況から察してほしい。

そんなことがあったせいだろう。父は記憶が曖昧になってから、息子に会うと目に涙をためて「かわいそうな子だ」と話すことがあった。父の記憶の中の息子は「かわいそう」で留まってしまったのだ。それなら私はどうなのだろう。私は楽しそうに笑えていたのだろうか。

 

「最後の記憶の私は笑っていたのか」

この頃、考えるのだ。

父だけでなく、出会ったすべての人と何気ない日をともにしたあと。

「さようなら」のあと。

あなたの記憶の中の私は、楽しそうに笑っていましたか。

そうであるならば、嬉しい。

 

エゴでしかない思いだけれど「なんだか楽しそうな人だった」と思ってもらえることは、私の心に幾つかの小さな花を咲かせてくれるのだ。

 

 


https://youtu.be/-ir91_XsJeA