バンビのあくび

適度にテキトーに生きたいと思っている平民のブログです。

私の父の話「2」

 この文章は『私の父の話「1」』の続きである。
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幼稚園に通っていた頃、私は父とお風呂に入ることが多かった。父とお風呂に入ることは嫌いではなかったが、唯一父に髪の毛を洗ってもらうのが嫌いだった。父は風呂椅子に自分が座ると、自分の膝の上に私の頭がくるように仰向けに寝かせ、頭を洗うのだ。この体勢がわりときついのと、顔に水がめちゃくちゃかかるのが嫌だった。けれど、一生懸命洗ってくれる父に悪くて言い出すことはしなかった。
 
ここで、父の職業であった新聞配達について触れておこうと思う。
どこの販売所もそうであったのか、また新聞社によっても異なる可能性があるため一概には言えないが、私が知っているかぎり新聞配達はわりと過酷だと思う。
父はたいてい、日付が変わる頃に起き、真夜中の1時くらいに仕事へ向かっていた。広告等の折り込みを新聞にセットし、それから配達を始める。帰宅は朝6時過ぎ。遅くても7時前だったと記憶している。ここで不着(新聞が届いていない)の連絡があれば、再度でかける感じだった。父はきっちりした性格だったため、不着連絡は少なかった。子どもの頃の私は「ふちゃく」が「不着」だとわからなかったので、なんだかくちゃくちゃした言葉だなあと思っていた。
朝の食事を終えた父は8時過ぎから眠る。そして12時過ぎに起きる。起きると駅へ向かう。夕刊が電車で届くからだ。父は時々、駅で立ち食いそばを食べた話をしていて、それが最高に羨ましかった。夕刊を配り終えて帰宅するのは18時過ぎ。よって、夕飯は家族で食べることができた。食後にお風呂へ入り、就寝。だいたい20時頃だったと思う。遅くても21時。これが毎日続く。
私は眠るのが大好きだったので、父のまとまった睡眠が毎日2回に分けられるのが驚きだったし、すごいと思っていた。
新聞配達は各家ごとに契約の期間が異なるため、月が替わると新聞を入れる家も変わる。よって、順路帳なるものが必要になる。今はきっと良い方法があるのだと思うが、当時父は順路帳を毎月手書きで書き換えていた。この順路帳には新聞を入れる順番通りに新聞契約者の名前が書かれているわけだが、それと一緒に記号が書かれていた。私はその記号を見るのが好きで三軒隣などを覚えたりしていた。一番好きな記号は「ハム」だった。(はす向かい)
当時も新聞休刊日は存在していたが、通常の新聞休刊日は「朝刊がお休み」なだけで夕刊の配達は休みではなかった。よって、完全に新聞の配達がない日は1年を通して1月2日だけだった。今となっては「父って何連勤してたのだろう!」と驚いている。(平成に入ってきた頃から順番に休みを取得するようにだんだん変わってきたようだった)
父は販売店の配慮で、家族旅行ができるお休みだけは毎年もらっていた。夏に2泊3日程度で家族旅行へ行くのが通例で場所は8割方伊豆だった。海なし県育ち、海なし県住まいの父にとって、海への憧れは大きかったと思う。ちなみに伊豆でない時は新潟だったり、親戚が住んでいた福島だった。
「伊豆へ旅行」と言っても伊豆は広いため、その年によって東伊豆、南伊豆、西伊豆と色んな場所に宿泊した。私は東伊豆ほどメジャーではない西伊豆が好きだった。海と山の両方楽しめる地形と、ベンケイガニがたくさん見られるのが良かった。伊豆では観光地に行ったり、釣りや海水浴をした。私が一番覚えているのは民宿に泊まった時、部屋に食べかけた「たけのこの里」を置いて出かけたら、帰宅したときに「たけのこの里」に向かって壁の端からありの行列ができていたことだ。楽しいこともたくさんあったと思うが、記憶なんて所詮そんなもんだと思っている。
 
父の話に戻るが、そういった生活をしていたので夕ご飯は家族みんなで仲良く食べることが多かった。うちは父を筆頭によく笑う家庭だったのだが、当時、兄の友達が遊びに来ていた際、「この家の笑い声は、一回外に出た音が跳ね返って聞こえてくるみたいだ」と言っていた。ご近所はさぞうるさかったことと思う。私はずっとどこの家庭もそんな感じだと思って生きていたが、そうでもないのだと年齢を重ねるごとに気づき始めた。
 
父は兄と私を平等に扱う人だった。
父は家電が好きで中でもオーディオ機器が大好きだったため、アンプやスピーカーが複数個あった(今も探せばあると思う)。父がそれを兄に譲ったとき、兄に与えて私にないのは不公平だと思ったらしく、頼んでもいないのに私にミニコンポを買ってくれた。兄に何かを与えると必ず、私にも必要かと声がかかり、与えようとしてくれる。それは大人になり、結婚しても変わらなかった。
 
そして私は父に叱られた記憶がない。私が特段、良い子であったわけではないと思うが、子どもに過度の期待をしない人であった。「健康で笑って暮らせるのがいちばんいい」
と言い、子どもを一個人として尊重してくれた。
子どもの勉強にはあまり感心がなく、自分がすべきことは子どもが行きたいと言った学校に行かせてやるだけのお金を用意することだと思っていた節があった。兄や私が高校に合格しても偏差値などはまったく気にしていなかったし「行きたいところに行けて良かったね」という雰囲気であった。私達が進学する高校名を周りの人に話し、「なんかさ、○○(兄の名前)が行く高校って頭いいんだねって言われちゃったよ」と人に言われて初めて知り、嬉しそうにする人だった。
私はそんな単純明快であり、気持ちを表現できる父は良いなあと思っていたんだ。
 
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ここまでを私の父の話「2」とする。続きは近いうちに。