バンビのあくび

適度にテキトーに生きたいと思っている平民のブログです。

支えるもの

X(旧Twitter)で、来年The Flaming Lipsが来日することを知った。うわー、行きたい!と思ったが東京のみ平日の2日間なんて行けるわけない。指をくわえて指の味を確かめながら涙の味も同時に味わった。

The Flaming Lipsをはじめて観たのはSUMMER SONICだった。それはサマソニ第1回目の富士急ハイランドで、熱中症になりそうなくらい熱気で溢れた室内のライブだった。洋楽に詳しくない私は外のライブと室内でやるライブのどちらを観るか迷っていた。すると友人のノリちゃんが「えこちゃんならThe Flaming Lipsが良いと思うよ」と勧めてくれたので素直にその言葉に従った。ちなみにノリちゃんは外でやってたジョンスペ(The Jon Spencer Blues Explosion)を観に行ったので、本当に私にはThe Flaming Lipsが良いと思ったのであろう。

事前知識もほとんどない中で観るライブに大きな期待はしていなかったが、私が観たものは以後、忘れることが出来ないほど素晴らしいライブだった。暑い室内で汗を拭くことも忘れ、ただ涙を流していた。まばたきをすることも忘れていたくらいだった。音とシャボン玉が弾けて揺れ、私の中へ入りこんでくる。

夏フェスには何度か行ったことがあるが、あれほどの強烈な体験はない。観終えたあと、ノリちゃんに「すごかった!とにかくすごかった!勧めてくれてありがとう」って興奮状態で伝えた。「それなら良かった」ノリちゃんは笑顔で言った。

ここまで書くとやはりライブへ行きたくなってしまう。それからノリちゃんにも会いたくなった。元気かな。

 

 

いつも身につけていて、もはや私のお守りと化している活字のペンダントがある。私はとにかく寝るのが好きだと話していたら友人が「寝」と彫られた活字ペンダントをプレゼントしてくれたのだった。

5年くらいはほぼ毎日つけているのだけれど「寝」の角が丸く削られてきた。ぶつけて削れるというより、衣服に擦れて少しずつ減っていったのだろう。もうひとつはしんどくなったり、自分を勇気づけるときに「大丈夫、私は、大丈夫」と心で唱えながら握りしめているからだろう。

この活字がどれほど私を支えてくれただろうか。

昼逃げするときも、調停の日も涙が枯れるまで泣いた日もいつも一緒に居てくれた。

支えているくせに「寝」って文字なのがなんだか抜けていてそれも気に入っている。

これが「魂」「勇」「志」とかだったらしんどくなりそうだから。

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www.youtube.com

歌の生まれる場所

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名古屋ちくさ座で行われた「冬にわかれて」のライブへ行った。冬にわかれてのライブは2年前、ちょうど同じ会場のちくさ座で観て以来だった。

寺尾紗穂さん、あだち麗三郎さん、伊賀航さんの三人が奏でる音楽と空気に酔いしれた。曲に応じて楽器を変え、なんて多彩なのだろう。あだちさんの横顔が素敵で、伊賀さんの佇まいが好きだった。紗穂さんの声は何か見えないものを連れてきてくれたようで、終盤、流れる涙を止めることができなかった。

マスクをする生活になってから、唯一良かったと思えるのは涙が溢れてしまったときに周囲に気づかれにくいことだ。ひたすら流れる涙を無視して前を見続ける。涙でぼやけた先に見える世界は優しかった。

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終演後、物販でCDを購入し、サインを入れてもらった。

紗穂さんにサインを書いてもらっているときに、「えこです」と名乗った。紗穂さんは手を止め、こちらを見つめながら「ああ、えこさん!」と言った。紗穂さんが横にいた伊賀さんに「何度かメールのやり取りをしている方で……」と私の説明をされてるのがなんだか不思議だった。私がメールをしていた寺尾紗穂さんとステージで伸びやかな声を響かせている寺尾紗穂さんが同一人物であるとはわかっていたが、私が名乗り、紗穂さんが反応してくれたことで夢ではないのだと思った。

何か気のきいたことを伝えたかった。「今日のライブが素敵でした」とか「やっとお話できて嬉しいです」など、さまざまな言葉が頭の中で高速に動き出したが、私が発した言葉はずっと伝えたかった「いちばん、苦しいときに助けて頂いてありがとうございました」だった。それものどの奥からやっと絞り出せた言葉だった。

この言葉を発することは、一瞬でもあのときの苦しみを思い出すことだった。言葉が震え、どんどん涙が溢れてしまい、それ以上話すことができなかった。

頭を下げて外へ出た。

当時、毎日がとても苦しかった。その生活の中で紗穂さんの歌に支えられていたのだが、ちょっとした出来事があり、このままでは紗穂さんの歌を聴くたびに、ツライことを思い出してしまいそうになっていた。この歌声を聴くたびにツライと思うことが嫌だった。手放してはいけないと思った。だから、寺尾紗穂さんにメールを送った。

誠に身勝手で申し訳ありません。寺尾さんの歌を聴くのがツライと思うことがないように、言葉を届けたくてメールをしました。

そのときの近況を添えたメールは本当に迷惑でしかなく、私の精神状態が極限であったことが、後からならよくわかる。だが、その迷惑なメールに対し、紗穂さんは返信を送ってくれたのだ。しかも、当時の私が置かれた状況を客観的視点からアドバイスをして下さり、寄り添ってくれたのだった。

私は少しずつでも前に進まないといけないと思えた。この人に良い報告をしたいと思った。

今、こうして穏やかな生活を送り、紗穂さんへ直接お礼を伝えられたことで何かの区切りがついた気もしている。

ライブの翌日、紗穂さんからメールが届いた。お会いできてうれしかったですと書いてあった。挨拶のような言葉かもしれないが、私にとっては日常に彩りを与えてくれるものだった。

 

冬にわかれてのライブへ行った日。

とても良い気分でくつろいでいたら、何年もやり取りをしていなかった友人からメールが届いた。「なにしてたのよ」と、尋ねてみると私が最後に連絡したアドレスはほとんど使っていなかったらしく、スマホを機種変更したら現れたので連絡したとのことだった。いろいろ大変だったここ数年を数行にまとめ、最後に「まあ、私のしあわせは自分でつかむけど!」と、書いたら「なんだかんだで最後は強気。かわんねーな。良きかな!」と、返信がきた。

そうか。最後は強気なとこは変わらんのか。

そう思ったら、すべてがどうでも良くなってきてなんだか笑えてきたのだ。

 

 

 

寺尾紗穂 歌の生まれる場所 - YouTube

 

この世界の何も信じられない

そう言うあなたに

一番綺麗な夕焼けをあげよう

 

 

夢から醒めるとき

通っていた小学校の裏に公園があった。その公園には遊具とグラウンドとつつじ園があり、その横にはお寺があった。年に1度、その公園で大きなお祭りが開催された。祭りの準備を学校の廊下から眺めることができたため、子どもたちは目を輝かせながら、祭りに行く約束を友達をしていたのだった。

何もなかったグラウンドに屋台が建てられていく様は塗り絵を塗りつぶしていくかのように、日常を非日常へ導いていた。中でも中心付近に建てられる見世物小屋とお化け屋敷には心が躍った。そして、お祭りの日に真正面から見た見世物小屋は怪しい雰囲気を醸し出しながらも、足を止めずにはいられなかった。

***


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稲泉連『サーカスの子』を読んだ。

大天幕の中に入ると、そこは夢の世界だった。--
舞台の上で繰り広げられる華やかなショー、旅を日常として生きる芸人たち。子供時代をサーカスで過ごした著者が、失われた〈サーカスの時代〉を描く、私的ノンフィクション。

あの場所は、どこへ行ったのか?
僕がそのときいた「サーカス」という一つの共同体は、華やかな芸と人々の色濃い生活が同居する場所、いわば夢と現が混ざり合ったあわいのある場所だった。(本文より)
幼いころ母とともにキグレサーカスで暮らした著者は、四十年近い歳月を経て、当時の芸人たちの物語を聞きにいく。
それは、かつて日本にあった貴重な場所の記録であり、今は失われた「故郷」と出会い直していくような経験だった。

ある一時期をサーカスで過ごした人々から語られる数々のエピソードは時代を反映しており、興味深く読み進めていった。

芸人たちは幼少期にサーカスで暮らしたことのある著者であるからこそ、心を開き、話してくれたことも多いのだろう。人と人が交わるときに発せられる熱のようなものが感じられ、まったくの部外者であるのに、どこか懐かしさを感じた。

温かく強く、少々乱暴な人の繋がりはこれからの時代で感じることがあるのだろうか。

決して「あの時が良かった」という話ではない。

輝かしい舞台は観客も演じている者をも狂わせてしまう、麻薬のようなモノなのかもしれない。

 

幼少期に私がみたサーカスの記憶はショーそのものよりも、終わったあとの夢から醒めるような感覚が強く、未だに忘れることがない

親が子どもをサーカスへ連れて行ってくれる家族の温かさを子どもながらに感じ、夢見心地で華やかな時を過ごす。その後にやってくる夢から醒める感覚は、同時に家族の温かさが終わるような気がして恐怖を感じたのだった。

始まるものはやがて終わる。

いつまでもこの温かさが続くわけはないと思い込み、いつもどこか怖かった。

やがて、長く続く温かさの中で恐怖も薄れ、ぬるま湯に浸かるような生活を送るのだが、それでもまだ、自分にいつかやってくるであろう「その時」に怯えた。

「備えあれば憂いなし」なのかもしれないが、準備が良すぎて怯える日が長いのは堪ったものではなく、ただ単に受け流すのが下手だっただけだろう。

何かを始めるとき、考えすぎては何も生まれない。

勢いよく飛び出すことも必要だ。

そうでなければサーカスになど入れないし、いつまでも表舞台に足を踏み入れることはできない。元来、表舞台よりも裏方気質の私だが、それでも表が華やかであれば良いと思うし、興味本位で少しだけ表にも足を踏み入れたいと考えている。いつか、またその先の話なのか、それもまた夢の話なのかは生きてみないとわからない。

 

 


寺尾紗穂 斜里しれとこくらぶ - YouTube

全部観て欲しいけれど、3分20秒くらいから『流した涙の数だけ 美しい虹がたつ』を歌われているのでそこだけでも是非。