バンビのあくび

適度にテキトーに生きたいと思っている平民のブログです。

SUUMOタウンに寄稿しました

SUUMOタウンで記事を書かせて頂きました。

 

suumo.jp

 

SUUMOタウンがどういった媒体であるか理解したうえで私にはどんな「三重県」が書けるのかしばらく考え、出した答えがこちらの記事の内容でした。

しかも強気に「この角度でしか私の三重は語れません!」と言い切りました。

三重県」には海や山、由緒正しき場所、美味しいところ、隠れおもしろスポットなどみどころはたくさんあるのでしょう。

ですが、私が三重県に来た時に思った「何もない」という感情がどこから湧いてでてきたものかがずっと心のどこかに引っかかっていました。

何もわからない地で相談できる人もおらず、仕事(当時からフルタイム勤務でした)とワンオペ育児で終わっていく日々。楽しいところを探す時間さえも奪われ、子どもが2人になってからは熱が39℃出ようとも運動会で走っていました。

こども達との生活が忙しいながらもなんとか回せるようになって、急に寂しさが襲ってきて、東京に住んでいる友人達に「会いたいよ。つらいよ。」と泣きついたこともありました。

遠方の友人達は優しかったけれど、私が生きていくと決めた地で楽しさを見いだせないのは私自身の視野の狭さにもあると思いました。ですので、まずは自分が楽しめそうなお店を巡って、そこから数珠つなぎのように活動範囲を広げました。

あくまでもSUUMOタウンですので三重県は良いところよ!ってPRがいちばんなのですが、裏テーマとしては見知らぬ土地で頑張っている皆さんに私が少しずつ動いたお話をさせて頂きたかったのが本音です。

 

こちらの記事に登場する場所やモノはすべて私にとって大事なものです。

また、記事に登場する場所にアポイントを取った際「嬉しいよ!」とお返事頂いた方も多かったと聞いてほっとしました。

 

「いやいや、三重にはもっといいとこあるよ!」

そう思われた方、仰る通りです。

これは私が私の居場所を探すために動いた、私個人の話です。

三重の魅力はたくさんあると思うので、皆さんから見える角度から語って頂ければさらに楽しくなるでしょうし、私もそのお話を伺いたいです。

 

三重に縁のない方も、どうぞいらっしゃい。

楽しいお話しましょうね。

 

 

自分勝手

昨日、娘とお祭りへ行った。とても賑やかで美味しいものをたくさん食べて楽しかった。娘は一緒に歩くときに手を繋ぎたがるのだが、最近は指つなぎをしている。

娘の人差し指と私の小指をからめて歩く。

時々、ぶんぶん振って歩く。

恥ずかしいことなんてまったくない。

これは私と娘の会話でもあるのだから。

しばらくの間、たくさんのことを制限された。自ら選んでやらないことと、制限をされることはまったく違う。自由をひとつ取り戻すたび、嬉しいのと同時に寂しさと悲しさがやってきて何とも言えない気持ちになる。この感情を言葉にするのは難しい。

ただ言えることは、これから私は本当の自由がなにかを探し、ずっと自身に問うのだと思う。

抑圧と支配の先に幸せが待っていることなどないのだ。

 

***


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久しぶりにシェル・シルヴァスタインの「おおきな木」を読んだ。本田錦一郎村上春樹が訳したものを持っているのだが、私は本田錦一郎が訳したものが好きでこちらの方が多く読んでいると思う。

愛とはなにか。

先日、考える機会を与えられたのだが、よくわからなくなってしまった。だが、私が子どもの頃に「愛とはなにか」漠然と感じられたのはこの絵本であったと思う。愛とは与えることであるが、そこに犠牲の行為を伴ってはならないと書かれたあとがきが強く印象に残っていた。誰かを愛するとき、いつも見返りを求めないことにしていた。私がそうしたいからするのであって、相手の反応をそれほど期待していなかった。

繰り返していたら、友人に慈愛に満ちた人だと言われたことがあって、さすがにそれはないなと思った。

相手に期待しないのは自らを守ることでもある。期待をして叶わなかったときの失望が辛すぎるのだ。

だから結局、私は自分が大事でとても自分勝手なのだと思う。

 

 

それならそれで開き直ってもう少しわがままに生きてみてもいいかなって最近は思っている。

 

 

おおきな木

おおきな木

 

 

おおきな木

おおきな木

 

 

 

 

20191012 ~触れる


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乱雑にしまっていた紙モノ雑貨を整理した。しばらくのあいだ、整理をする心の余裕がなかったのだが、好きなものなのに雑に扱うのはやはりよろしくないなと思ったのだ。床に広げてひとつひとつ手に取り、確認しながらケースにしまう。自分のまわりに広げられた紙モノを見て自然と笑みがこぼれた。なぜなら、これらは誰かにとって紙くずであっても私にとってはたからものなのだから。少しずつ何年もかけて集めて今、私の手元にある。いつかは使おうと思っているけれど、ただ広げて眺めるだけでもしあわせな気分になれる。

紙モノと一緒に何通か頂いた手紙もあったので、こちらも1通ずつ確認していたら、葉っぱのかたちの紙切れがひらひらと床に落ちていった。

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以前に頂いた色んな色の落ち葉が出てくる手紙。これをもらったときにとても嬉しかったことを思い出した。相手が葉っぱのかたちのパンチでちまちま抜いてたのかなと想像し、クスッと笑ってそのあたたかい気持ちに感謝したのだった。

私の心は時の流れとともに、変化し続けるのであろうけれど、私があのときに感じた思いは変わることがない。

 

つらいことも多いけれど、誰かの優しさに触れられる私の日常はそんなに悪くはないのかもしれない。