バンビのあくび

適度にテキトーに生きたいと思っている平民のブログです。

岩出菌学研究所さんよりオオイチョウタケを頂いたのでお料理しました!

今年も岩出菌学研究所のFさんより、オオイチョウタケが送られてきてきました。f:id:bambi_eco1020:20210928192500j:image

津市美杉で試験栽培されているオオイチョウタケをご厚意でおすそわけして頂いているので、オオイチョウタケ料理を作ってみましたー!

 

『炊き込みごはん』
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オオイチョウタケを美味しく食べるド定番。

具材はたくさん入れず、シンプルな方がオオイチョウタケの味わいが広がって美味しいです。炊き込みごはんは炊き上がってくるときの香りから最高なのです!この香りで「オオイチョウタケだ!」と子ども達がわかるくらい。

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この日はお休みだったので、オオイチョウタケ炊き込みごはんで和の朝食。

 

『オオイチョウタケのクリームパスタ』
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オオイチョウタケは洋食にも合います!

こちらはクリームパスタ。

オオイチョウタケを惜しみなく入れて食べるのが贅沢で美味しいです。

昨年はチャウダーにもしました。

クリーム系全般いけるはず。

 

『茶碗蒸し』
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オオイチョウタケは香り高いきのこなので、だしとの相性も良いと思い、茶碗蒸しにしてみました。

実は今までも作りたいと思っていましたが、茶碗蒸しに適した器を持っておらず、やっと購入(美濃焼、アウトレットで200円。めっちゃ良い買い物)。

コトコト蒸したら、わりとキレイに出来上がりました。


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この日はかつおのたたきがとても安かったので、こんな夕食。

 

美味しい食材が手に入ると、どんなふうに料理しようかワクワクします。

Fさん、いつもワクワクを下さってありがとうございます!

美味しく頂きました!

 

シャインマスカットを頬張ると。

昨日、コロナワクチンの2回目接種をした。

1回目は拍子抜けするほど副反応がなく、ラクだけれど私の体のメカニズムはどうなってるのかなと思っていた。2回目は翌日に発熱や関節痛があると聞き、体の変化を何時間かおきに確認した。とりあえず今のところは熱は37℃以上にはなっておらず、関節痛があるという感じ。ここから酷くならないことを祈る。

秋めいた風が吹き始め、1年の終わりが近づいてきたことを知る。人と接することもあるけれど、相変わらず、心を支えてくれているのは数々の本や映画などのような気がする。

離婚して1年が経ち、自分を大事にすることはほどほどにして、次のフェーズへ進むつもり。大きく何かが変わるわけではないけれど、単純に子ども達にお金がかかるので、より意識して行動しないといけない。収入が劇的に上がることなどないし、娘の勉強意欲が高まっているときに、問題集や参考書を買ってあげたい。

未だに何かが足りなくてさびしくなったり、苦しくなったりするけれど、私は守るべき存在を最優先しなくちゃね。


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母からシャインマスカットと梨(秋月)が届いた。

シャインマスカットなんて高くて買えないし、喫茶店などもほとんど行かないので自分でスイーツを作ろうと思い立った。

作ったのはシャインマスカットのチーズケーキ。

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層の境目がキレイにいかなかった。

チーズケーキ部分はクリームチーズマスカルポーネチーズ、生クリーム、グラニュー糖、ゼラチンだったかな?真ん中はシャインマスカットの周りがレモンゼリーになっている。


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これ、間をゼリーにしたけど、2層でも良かったな。その方が出来上がるの早いもんね。

私がみたレシピのパウンド型サイズがなかったので、小さめを2個つくったけど、そろそろホール型を買いたい。

ホール型、別居したときに、焦りすぎて持ってくるの忘れちゃったのよね。あのときの恐怖を思ったら、今はどれだけのほほんとしているのだろう。ゆっくりケーキが作れるだけでしあわせだ。

 

 


ハナレグミ - 「オリビアを聴きながら with 東京スカパラダイスオーケストラ」 Live Video - YouTube

まるがひとつ弾けて。

4回に分けて「私の父の話」を書いた。

ごく平凡な生活を送った、ただの男の人の話は誰かにとって何かを生み出すようなことはないと思う。けれど、私にとって「父のことを書く」行為は必要であったように感じている。

以前、iakuという劇団の「目頭を押さえた」という公演を観たことや、何人かの人が天に還って行くのを見届けた頃から「弔う」ことについて考えるようになった。

そもそも、葬儀を行うことは亡き者を皆で思い出すのと同時に、遺された者のためだ。

亡き人を思い出し、

「あの人は花が好きだった」

「美味しい料理を作ってくれた」

「真面目なようでいて、パンチのある発言をぶちこんでくる人だった」

などと、エピソードの一つ一つを咀嚼し、飲み込んでいく。そうすることで遺された者は生死を認識し、痛みとともに少しずつ回復していく。心を痛めた者に対し、時間はとても優しい。辛くても苦しくても等しく経過する時間はただ寄り添ってくれるひとのようだと思う。

人が亡くなることは、虚しさを連れてくるけれど、今まで知らなかったその人のエピソードをはじめて聞ける場を設けてくれる。とても近しいのに、その人にそんな一面があったことをはじめて知ったりする。本人を前にすると照れくさくて言えなかった数々の思い出が、シャボン玉のようにまあるく、たくさん現れて弾けては消えていく。

まるがひとつ弾けて。

あの人をひとつ飲み込んだ。

私にとって、父と過ごした時間を思い出し、書く行為はシャボン玉を吹くのと似ている。

ふぅと吹き、綺麗なまるを作る。

しばらくするとまるが弾ける。

まるがひとつ弾けて。

心の中にすぅと父が入り込む。

 

大好きだったときもあるし、近寄りたくなかったときもある。

静かに思い出すこと。

それが「弔う」ことだと思っている。