バンビのあくび

適度にテキトーに生きたいと思っている平民のブログです。

まるがひとつ弾けて。

4回に分けて「私の父の話」を書いた。

ごく平凡な生活を送った、ただの男の人の話は誰かにとって何かを生み出すようなことはないと思う。けれど、私にとって「父のことを書く」行為は必要であったように感じている。

以前、iakuという劇団の「目頭を押さえた」という公演を観たことや、何人かの人が天に還って行くのを見届けた頃から「弔う」ことについて考えるようになった。

そもそも、葬儀を行うことは亡き者を皆で思い出すのと同時に、遺された者のためだ。

亡き人を思い出し、

「あの人は花が好きだった」

「美味しい料理を作ってくれた」

「真面目なようでいて、パンチのある発言をぶちこんでくる人だった」

などと、エピソードの一つ一つを咀嚼し、飲み込んでいく。そうすることで遺された者は生死を認識し、痛みとともに少しずつ回復していく。心を痛めた者に対し、時間はとても優しい。辛くても苦しくても等しく経過する時間はただ寄り添ってくれるひとのようだと思う。

人が亡くなることは、虚しさを連れてくるけれど、今まで知らなかったその人のエピソードをはじめて聞ける場を設けてくれる。とても近しいのに、その人にそんな一面があったことをはじめて知ったりする。本人を前にすると照れくさくて言えなかった数々の思い出が、シャボン玉のようにまあるく、たくさん現れて弾けては消えていく。

まるがひとつ弾けて。

あの人をひとつ飲み込んだ。

私にとって、父と過ごした時間を思い出し、書く行為はシャボン玉を吹くのと似ている。

ふぅと吹き、綺麗なまるを作る。

しばらくするとまるが弾ける。

まるがひとつ弾けて。

心の中にすぅと父が入り込む。

 

大好きだったときもあるし、近寄りたくなかったときもある。

静かに思い出すこと。

それが「弔う」ことだと思っている。