バンビのあくび

適度にテキトーに生きたいと思っている平民のブログです。

シャインマスカットを頬張ると。

昨日、コロナワクチンの2回目接種をした。

1回目は拍子抜けするほど副反応がなく、ラクだけれど私の体のメカニズムはどうなってるのかなと思っていた。2回目は翌日に発熱や関節痛があると聞き、体の変化を何時間かおきに確認した。とりあえず今のところは熱は37℃以上にはなっておらず、関節痛があるという感じ。ここから酷くならないことを祈る。

秋めいた風が吹き始め、1年の終わりが近づいてきたことを知る。人と接することもあるけれど、相変わらず、心を支えてくれているのは数々の本や映画などのような気がする。

離婚して1年が経ち、自分を大事にすることはほどほどにして、次のフェーズへ進むつもり。大きく何かが変わるわけではないけれど、単純に子ども達にお金がかかるので、より意識して行動しないといけない。収入が劇的に上がることなどないし、娘の勉強意欲が高まっているときに、問題集や参考書を買ってあげたい。

未だに何かが足りなくてさびしくなったり、苦しくなったりするけれど、私は守るべき存在を最優先しなくちゃね。


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母からシャインマスカットと梨(秋月)が届いた。

シャインマスカットなんて高くて買えないし、喫茶店などもほとんど行かないので自分でスイーツを作ろうと思い立った。

作ったのはシャインマスカットのチーズケーキ。

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層の境目がキレイにいかなかった。

チーズケーキ部分はクリームチーズマスカルポーネチーズ、生クリーム、グラニュー糖、ゼラチンだったかな?真ん中はシャインマスカットの周りがレモンゼリーになっている。


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これ、間をゼリーにしたけど、2層でも良かったな。その方が出来上がるの早いもんね。

私がみたレシピのパウンド型サイズがなかったので、小さめを2個つくったけど、そろそろホール型を買いたい。

ホール型、別居したときに、焦りすぎて持ってくるの忘れちゃったのよね。あのときの恐怖を思ったら、今はどれだけのほほんとしているのだろう。ゆっくりケーキが作れるだけでしあわせだ。

 

 


ハナレグミ - 「オリビアを聴きながら with 東京スカパラダイスオーケストラ」 Live Video - YouTube

まるがひとつ弾けて。

4回に分けて「私の父の話」を書いた。

ごく平凡な生活を送った、ただの男の人の話は誰かにとって何かを生み出すようなことはないと思う。けれど、私にとって「父のことを書く」行為は必要であったように感じている。

以前、iakuという劇団の「目頭を押さえた」という公演を観たことや、何人かの人が天に還って行くのを見届けた頃から「弔う」ことについて考えるようになった。

そもそも、葬儀を行うことは亡き者を皆で思い出すのと同時に、遺された者のためだ。

亡き人を思い出し、

「あの人は花が好きだった」

「美味しい料理を作ってくれた」

「真面目なようでいて、パンチのある発言をぶちこんでくる人だった」

などと、エピソードの一つ一つを咀嚼し、飲み込んでいく。そうすることで遺された者は生死を認識し、痛みとともに少しずつ回復していく。心を痛めた者に対し、時間はとても優しい。辛くても苦しくても等しく経過する時間はただ寄り添ってくれるひとのようだと思う。

人が亡くなることは、虚しさを連れてくるけれど、今まで知らなかったその人のエピソードをはじめて聞ける場を設けてくれる。とても近しいのに、その人にそんな一面があったことをはじめて知ったりする。本人を前にすると照れくさくて言えなかった数々の思い出が、シャボン玉のようにまあるく、たくさん現れて弾けては消えていく。

まるがひとつ弾けて。

あの人をひとつ飲み込んだ。

私にとって、父と過ごした時間を思い出し、書く行為はシャボン玉を吹くのと似ている。

ふぅと吹き、綺麗なまるを作る。

しばらくするとまるが弾ける。

まるがひとつ弾けて。

心の中にすぅと父が入り込む。

 

大好きだったときもあるし、近寄りたくなかったときもある。

静かに思い出すこと。

それが「弔う」ことだと思っている。

 

私の父の話「4」

この文章は『私の父の話「1」「2」「3」』の続きである。

私の父の話「1」 - バンビのあくび (hatenablog.com)

私の父の話「2」 - バンビのあくび (hatenablog.com)

私の父の話「3」 - バンビのあくび (hatenablog.com)

***

息子が3歳になる前に、夫の都合で三重県に引っ越しをした。実家が遠方となり、両親に会えるのはお盆と正月の年2回になった。

帰省すると父は嬉しそうに子ども達の写真を撮った。子ども達が若干飽きて、撮られていることを意識しなくなり、自然体になった頃の写真がなんだか良いなって思った。

ある時、母から父が脳梗塞になったと知らされた。お釣りがわからなくなったのを不安に思い、病院へ連れて行ったところ診断が出たとのことだった。年に2回程度しか顔を合わすことがない私の名前はわりと早く呼ばれなくなった。私が父にとって家族であり、大事な人である認識はあるようだった。私も父の笑みからそう感じているとわかっていたが、名を呼ばれることはもうなくなるかもしれないと思うと悲しくなった。

父は少しずついろんなことを忘れていった。散歩が好きで勝手に家から出て行ってしまうことが増え、母を困らせた。お風呂から出た後、新しい下着と脱いだばかりの下着を2枚着て、脱がせようとする母を拒み、困らせた。意思を言葉で伝えることが難しくなり、力で押さえつけることも出てきた。

遠方に住んでいる私は何の役にも立てなかった。ただ、電話で母の話を聞き、そろそろ考えないとね、ってそればかりを繰り返した。

母の疲れがピークになってきた頃、父の入院が決まった。私はとてもホッとしたが、母は家が好きな父を入院させたことに罪悪感を持っているようだった。私と兄は「お父さんは散々楽しく暮らしてきたよ。何も心配ないよ」と母に伝え、母は「そうよね」と寂しそうに言った。

父の行動を見守ることから解放された母は回転性のめまいを起こしたりした。以前から、回転性のめまいがあった私は、母を見て「私のめまいもストレスだったんだな」と思えた。客観的にモノをとらえてるようで、当事者は何もみえていないのだと感じた。

私は父の面会へ行く機会を心待ちにしていたが、ウイルスによる世の中の変化により、私は一度も父の面会に行くことが出来なかった。

弱っていく父を知っている母と兄、それを知らない私とのあいだには見えない何かがあるような気がしている。私自身、離婚調停などで心が疲弊していたこともあり、母と兄は私を気遣ってくれていた。父はきっと最後まで私と私の子ども達が穏やかに暮らせる日を願っていたことと思う。私はお父さんに会って「穏やかに暮らせているよ」と伝えたかった。今、これを書いていて涙が頬を伝ってきたので、これが私の本心であることは疑いようがない。

子ども達と笑っている姿をもっと見せてあげたかったし、一緒に笑いたかった。私の知っている父は穏やかで楽しくてとても優しく、誠実な人だ。これは変わらない。

映画を観てすぐに泣いてしまうのが可愛らしかった。

欲しいものを手に入れるとすぐに見せにくる無邪気さも可愛らしかった。

父が死んだと知らせを受けて、私は実家へ向かった。冷たくなった父は生気がなく、蝋人形のように見えた。入院期間中に髪の毛が伸びたため、私が知っている父のようには思えず、誰が横たわっているのだろうと思った。

実感のないまま、葬儀を迎えた。葬儀で賛美歌を歌っているとき、ぽろぽろと涙が零れてきた。賛美歌には心を開放する力があると感じた。「賛美歌歌っちゃうとやっぱりダメよね」と母は涙声で言った。

何年も会っていなかった親族や知人が父について語っている。私が知っている父と私が知らない父が混在していて、いったい誰の話をしているのだろうと遠くを眺めた。

葬儀、火葬場で、私の息子と娘がよく動いてくれたらしく、知人の方にお褒め頂いた。私はちっとも子ども達の動きを把握していなかった。

私は心がココにいなかった自分を見つけた。

 

私の名前は父がつけた名前だ。母は「子がつく名前が良い」とだけ父に伝え、父が考えてくれた名前だ。母がクリスチャンなこともあり、時々教会の方からある都市名からとった名前なの?と尋ねられることもあったが、父がそんなことを気にしたはずもなく、それは偶然だった。

母がよく話してくれた。私が産まれたとき、父は嬉しそうに「オレに似て美人だ!」と叫んでいたそうだ。おそらくただ顔の赤いサルみたいな顔をしていた私を「美人」と言ってしまうあたりが、親バカであり、愛するべきところだ。

私が小学生くらいの頃、父方の伯母が「えこちゃんは私の母さんに本当によく似ている」と言っていた。

どうやら私は父の母に似ているらしい。