先日mixiに日記を書いた。
書き終えた後、その日記がまるっと2年ぶりの更新だと気づいた。
mixiは身内と言えるぐらい近い友達にしか公開していない。今でもスローペースではあるが、内輪話が呟かれ、彼、彼女らが日々を過ごしている事を目にし、安心している私がいる。
今回私は公開を限定している友達向けに日記を書いたのだが、読み返してみたら、ブログとは微妙に違う私がいてちょっぴり笑った。なんて言うのかな、漂う安心感があるせいか言葉を選ばずつらつら書いた感じ。あまりにも久しぶりだったので、日記と言うより現在の心境なんだけど「ああ、私ってこう考えてたんだ」と思わず自分の文章を5回くらい読み返した。そこに書いたことはそれぐらい自然に出た気持ちだったんだ。
せっかくなのでココにその文章を記しておく。
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いつからだったであろうか。
使用しているブログが更新されたら、mixiとの連携方法がわからなくなった。
わからないのだから連携しない。これ、自然な流れ。
それでも「見たよ」と言ってくれる人がいて嬉しく思ったりする今日この頃。
早いもので、私は中学生のこどもを持つ母となった。
中学生ですよ?ねぇ、ビックリしちゃうよね。
mixiで繋がっている人の多くは私が20代前半に出会った人達なんだけど、私があの頃に戻る年数より、息子があの頃の私の年齢に達する年数の方が短いなんて考えると不思議なものだと思うんだ。
「こどもを育てている」という意識はあんまりなくて、共存している中で子が育っていく過程を眺めている感覚だ。これはきっと親としてはアカンやつだとは思うが、「育てる」なんて大それたこと言えやしない。
保育園で働いていた頃も感じてはいたが、人間として生まれ、その子が育つ過程に携わることへの責任と恐怖はほんの少し感じている。
私が携わるってことは、この人間が人格を形成する部分に携わるということ。元々備わっている気質があるとは言え、成長過程での近しい存在は影響を与えないわけがない。
私自身がそうであったように、身近な人から吸収すべきことは、良いことだけではない。反面教師の存在もあり、理不尽な言動に押しつぶされたりもする。稀に救世主が現れるがそうそう上手く行くことばかりではない。
そんな時にどう切り抜けられるか、または逃げられるか。
その判断能力を身につけさせてあげたいとはどこかで思っている。
大事なことじゃないかな。生きていく上で。
賢くても少々頭が悪くても、ヒトとして生き抜いていけなければ何にもならない。
……なんてね。
そんなことを考えながら生きています。
私の友達は楽器弾ける人が多くてうらやましいなぁと思いましたが、私は文章で表現する方が合っているようです。
時々、こちらでも何か書いていこうと思ったり思わなかったり。
そんなところです。
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微妙な違いがわかりますか?
もうこちらには載せないけど、また忘れた頃にmixiに日記を書こうと思う。
友人達を通しての私自身へ向けて。