バンビのあくび

適度にテキトーに生きたいと思っている平民のブログです。

『kalas』のこと。書くことについて。

現在、休刊している翼のある小冊子『kalas』の発行人であり、古書kalasbooksを営んでいらっしゃる、西屋さんのお話をうかがえる会が開かれたので参加した。

数ヶ月前、友達が小冊子kalasを購入したツイートをしていたため「私も持ってますよー。大好きな冊子ですよ」とリプライしたところ、他の友達が「わたしも持ってます!」と盛り上がったことがきっかけだ。皆がそんなに大好きな冊子なら、その思いを届けたい、あわよくば裏話を聞きたいなどと、話しているうちに行動力のある友達がアポイントを取り、開催する運びとなった。

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小冊子kalasは簡単に言うと、タウン情報誌だ。その土地のお店や風景などが載っている雑誌と思ってくれればイメージがしやすいかもしれない。ただ、一般的なタウン情報誌と大きな違いがある。それは、文字の分量だ。今回、お話を伺う中で、元々は情報誌の位置付けだったものが、自由に試行錯誤しながら発行しているうちに文字数が多くなったと仰られていた。私がいちばん愛して止まないのもその点にある。

街にあるお店の数行で語れる情報ではなく、その人の横顔や思いが西屋さんのフィルターを通して私たちに語りかけてくる。私が住んでいる街に、今同じ時間を生きている人がいる。その人の息づかいが聞こえてきそうな文章に私は何度も支えられた。

明日が来るのが気が重く、眠るのすら怖かった日々に人の気配を感じさせてくれる文章がどれだけ励みになっただろうか。明日は怖いけれど、私もこの人達のように誇りを持って生きたいと考えたり、自由を手に入れたらこのお店に行ってみようと夢を膨らませた。

今、私が自由に動き回れるようになったことの一端にはkalasや、kalasに登場する人々の姿があったと言っても過言ではない。

西屋さんから取材の難しさや書くことについて、これからのことについてなど貴重なお話の数々をお伺いすることができ、刺激とともに力を分けて頂けたように思う。

私はkalas愛が強すぎてやや前のめりになってしまったので、あの場にいたすべての人に感謝したい。

 


“何もない”のは誰のせい? 子育てに苦しむ私を救った「三重」での小さな出会いたち - SUUMOタウン

『kalas』については以前、SUUMOタウンで記事を書かせて頂いた時に触れています。

また、私がお世話になったいる岩出菌学研究所さんとの出会いはこのkalasに載っていた「ヤコウタケ栽培キットの販売を始めました」という公告を見て、ヤコウタケを栽培したことがきっかけです。

 

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西屋さんにkalasを復刊する予定はないか等々、質問する中で「どうして皆さんは書いていることを隠したがるのですか?」と逆に問いかけられた。

私は現在、ブログを書いていることを誰にも隠していない。もちろん、URLを教えるかどうかは関係性にもよるので、誰にでもほいほい教えているわけではないが、書いていると話してはいる。

ブログを始めた当初は隠していた。というより、口にするのが恥ずかしいというかそんな感じだったと思う。あの頃の私はとにかく自信がなく、誰かに伝えて「こんな文章しか書けないのに書いてるとか言っちゃうのー?」みたいに思われることがイヤだった。ブログを始めたきっかけになった友人に最初に読んでもらい「面白いですよ」と言ってもらえたことだけが続ける理由になった。次第に文章を書くことで自分のバランスが保てることに気がついた。私は「ことば」を発したかったのだ。書き始めて1年くらいはどんどん膨れ上がる自己顕示欲との戦いだった。書くからには読まれたい気持ちが大きくなってしまった。それも書き続けていると一過性のものだったようで、読まれたい願望もだんだんなくなっていった。その頃から、まったく知らない誰かから、ブログに載せているメールアドレスに感想が送られてきたり、コメントを頂けるようになった。私の書いた文章の何処がその人を動かしたのだろうと不思議に思ったりしていた。

日々のことを綴っているだけでも、読み手の心境と重なりあうことがある。それは書き手にはどうすることもできない。狙っていないものだからだ。文章は書いて公開すると読んでいる人のものになっていくのだと思えてから、私は書いていることを隠さなくなった。1つの木を10人が眺めていたとする。その木について書きなさいと問われ、10人の書いたものは皆違う。それで良いのだと思う。私が見た木の感想はもしかしたら他の人の視点にはないものかも知れない。それならば私が見えているものをココに書き記したいと思った。

子育てが千差万別であるように、悩みや辛いことがあると、同じような事例を探したり、よすがを求めたりする。万が一でもそのようなものになれればそれで良いような気がしている。

おこがましいけれど、私がkalasに支えられたように、私が書く何気ない日常が誰かの楽しみなれれば嬉しい限りだ。

もちろん、私の文章のいちばんのファンは私自身だ。