毎日、気にも留めないほど日常に溶け込んだ行動をしている際、不意にそれらが不思議なことをしているような錯覚に陥ることがある。
例えば、カーテンを開けたとき。
キッチンでマグカップを洗っているとき。
湯船に足のつま先を浸けたとき。
いつもは素通りしていく動作なのに、あれ、いつもこんなだったかな、いつもはどうしていたんだっけなと思い返してみたり、一瞬わからなくなったりしている。
当たり前の風景は当たり前すぎて驚きがない。近所に有名なお店があって、ひっきりなしに客が訪れていたとしても、驚かないし、自ら並んでまで入ろうとはあまり思わない。
近いとそれだけ遠いのだ。
道路に葉が落ちていても、あまり写真におさめようとは思わないが、ちょっと出かけただけで道路に落ちている葉が新鮮に感じた。あとから、こんなの家の近所にも落ちているのにって思ったけど、それとこれとはやっぱり違うのだ。
私の目から見えた葉はそれぞれの風景に溶け込んでそこにいた。
知らない街を歩くとそれだけでなぜだかわくわくするのは、見渡すものが目新しいために刺激があることと、おそらく、この風景が日常と化している人々では気づかない何かを探すことが出来るからだと思う。
私だけでもそれらを探すことはできるのだけれど、こどもの視線が入ると面白いさが増すような気がする。
先日、出かけた際に見えた風景。
「わたしとこどもがみたもの」をいくつか並べてみようと思う。
ロボットにしか見えない。
葉が落ちているなんでもないマンホール。
これが、娘の手にかかると・・・
こんな顔になる。
どこにでもありそうな送水口。
だけど、この送水口の前にあるバス停が「水筒先」で笑ったのだ。
「なんてかいてあるのかパッと見るとわからない」と息子が 笑っていた駐輪場。
読み方は「くるまみちじてんしゃちゅうしゃじょう」
三重県で一般道は3車線までしか見ないような気がするのだけど、名古屋は5車線のところがあり、それをみた娘が「道路が広いけど、レースでもするの?」と問いかけてきた。「交通量が多いから車線が多いだけで、レースをするわけではないよ」と娘に伝えると、娘はふーんと言った。
そのような会話をした先の道路にコレが落ちていた。
どこからどう見てもバナナの皮・・・
「あ!!!やっぱりレースするじゃん!マリオカートじゃん!」と言われたのは言うまでもない。
名古屋ではマリオカートをする。私の頭にインプット。
なんでもない道路も面白いことがたくさんある。
だから明日も歩いてみたいし、明後日へも進んで行きたい。
だけど、とりあえず、今日は「どろんここぶた」のようにずぶずぶ沈んでみたいと思う。