Innovative Incubation of Regional Arts 三重—広島 2021「キラル / 抄訳 漂泊の家(Théâtre de Belleville)を観た。
広島の劇団「グンジョーブタイ」所属、第26回劇作家協会新人戯曲賞最終候補作家・泉晟による「キラル」と、京都の劇団「烏丸ストロークロック」の劇作家・柳沼昭徳の「漂泊の家」を原作とした再構成抄訳版「抄訳 漂泊の家」を、第七劇場とグンジョーブタイの俳優が、鳴海康平の演出によって上演。
いずれの作品もまだ痛みが癒えたとは言い切れない私には刺激が強く、ちくちくする胸をぎゅっと掴み、呼吸が苦しくなる喉を広げるようにゆっくり息を吐きながら鑑賞した。2作品ともとても良かった。
「キラル」は微妙な心的表現に魅せられた。
人と関わり合いを持つことはカジュアルで良いと思っているけれど、その軽さと優しさは時として、無関心より残酷だ。
中途半端な優しさを与えてくるくらいなら、むしろ放っておいてくれ。
その方が希望を持たずにすむのに。
そう思ったことが私にもある。けれど、それもまた自分勝手な話だなと今は思っている。一時の抱えきれなくなった重さや苦しさを「優しさ」を与えてくれた人にぶちまけたかっただけなのだろう。なんとも幼稚な話だ(でもそのときはそれが生きるうえで精一杯の表現だった。)
それらを理解した次にやってきたのは、自分自身への攻撃だ。自分の許容のなさや不甲斐なさに呆れて、失望した。前段階とは微妙に違う苦しみが付き纏った。その苦しみは今も続いているけれど、少しずつ己を許そうとしている。どんな私だって良いのだと思えるように。
例えば、とても好きな人がいるとしよう。その人が自分を認められず、卑下する言葉を並べるならば私はきっと腹を立てると思うのだ。私はあなたの素晴らしさをいくつも並べることができる。とても尊い人だ。なのに、なぜ、それを認めてくれないのか。あなた自身が思うより、あなたは良いものをたくさん持っているし、私は知っている。だから、胸を張って笑っていてくれ。などと思いながら。
私はそれと同じ思いを自分自身へ向けていかなくちゃいけない。ゆっくり時間をかけて自分の不甲斐なさも愛せるようになれば、もう少し私自身に優しくなれると思う。
「キラル」は演出の鳴海さんが若い世代の方とともに作りあげた作品だった。
私は鳴海さんとそう変わらない年齢なのだが、最近は経験からくる固まった思考を頼り過ぎるのは良くないと感じているので、鳴海さんが若い世代と関わることは楽しみでしかない。今後も期待したい。
ちょうど、この舞台の前日に、私は20才くらい歳の離れた友達と甘いものを食べながらお話した。
彼女と話しているとき、私はほとんど年齢差を感じることはない。彼女はただひたすら、しゃべってしまう私に、ふと、質問を投げかけてくれる。私はそれに答えようと頭を働かせる。私の口から発せられた言葉に私自身が「あれ?そんなこと、考えていたのか」と不思議に思うことがあり、おそらく的確な質問がそうさせているのだと感じた。歳は私の方がずいぶん上だけれど、何か役に立つことを話せている気はしない。私は彼女とその場で楽しく甘いものを食べる時間があればそれで良いのだ。彼女が美味しく食べられたと言ったとき、ああ良かったと思った。笑っていてほしい。それが私のエゴであっても。
また、甘いものを食べに行こう。
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私と20歳くらい歳の離れたお友達、大阿久佳乃ちゃんが書いた『のどがかわいた』(岬書店)はとても素晴らしいので皆、読んだ方が良いと思います。
詩が好きな佳乃ちゃんの感性はぴっかぴかに光るものがあり、私が上手く言葉に出来ずにいたことがこの本には書かれていました。
私はずっと友達であり、一ファンでいようと思っています。