小学生の頃、「気絶ごっこ」なるものが流行った。
「ごっこ」と言いながらも全く可愛げのない遊び。
教室の後ろの方で男の子達がプロレスごっこをしていた。
日常よく見る風景。
技をかけている方もかけられている方も笑っていて楽しそうだ。
でも、それは実は違うんだ。
ある日、先生が神妙な顔で教室に入ってきた。
「気絶ごっこ」で気絶(失神)したCくんがいじめられていたって。
「いじめられているの見たことある人はいますか?」
「プロレスごっこで技をかけられて辛そうにしてなかったですか?」
そう言われても光景が日常になり過ぎて気に留めることなんてなかったんだ。
「Cくんはこんな辛い思いをしたのに、誰も気づいてあげられなかったんですか?」と更に問いかけてくる。
起きた事の重大さと先生の執拗な問いかけで呼吸が苦しくなってきた。
先生は「今後、このようなことのないように全員が反省文を書きましょう」と言った。
傍観者と位置づけられて書かされる反省文を前にして更に苦しくなってくる。
そんな時、休み時間がやってきた。
チャイムが鳴ると同時にトイレにかけこんで声を殺して泣いた。何をどうすれば良いのかわからないよって。
トイレから出るとこっちを見る子が何人かいた。
もしかしたら声が漏れていたのかも知れない。
それ以前に目が赤いからこちらを見ていたのかも知れないけど。
休み時間が終わり、いよいよ反省文に取りかかる。
先生は「無記名で良いから、自分の思いを全部書いてみて」と言った。
それならば・・と気づけなかった自分の反省と話を聞かされてトイレで泣いたことまで、書けることはすべて書いた。
書いてる間は辛かったけど、書き終わったらほんの少しだけ苦しさから逃れられた気がした。
後日。
先生が「こないだ書いてもらった反省文でとても良いと思ったものがあります。無記名で書いてもらったから誰か皆にもわからないのでここで読みます」と。
嫌な予感がした。そんな時の嫌な予感はだいたい当たる。
先生が読み始めた文は間違いなく私の書いたものだった。
少しだけ教室がざわつく。それはそうだと思う。
当事者でなく傍観者でそこまで入り込んで書いた文なんて、みんなを白けさせるだけだから。
なぜ反省文を読み上げる必要があるのか?反省文に善し悪しがあるのか?
大人は子供の心を少しもわかってないと思った。
息子が当時の私ぐらいの年齢になった。
まったくをもってダメな母親である。
明らかに大人の権力を振りかざし、自分の都合で動こうとしている。
毎日、反省しかしていない。
それでも「お母さんが好き」と言ってくれる息子の頼もしい味方ではありたい。
「今日は席替えがあってね…」「女の子にキモいって言われたー」
何でも話してくれるこの時期がいつまでも続いたら良いのにな。