夜。
子どもが寝静まってから、ドアを静かに開けて外へ出た。
少しひんやりとした空気が体を纏った。
夏はいつ終わったのだろうかと曖昧な記憶を辿る間にも、冬の足音はゆっくりと近づいてくる。そんな今でしか感じられない心地良い、ひんやりとした秋の空気だと思った。
特に行き先がある訳ではない。
ただ歩きたかっただけなのだが、都会ではない「この地」では、ある程度方向を決めて歩かないと路頭に迷ってしまう。これと言ったランドマークもないのだが、さてどうしよう、と考えた時に「そうだ、海を目指そう」と思った。
海なし県出身の私は、海に対してとても憧れがある。幼い頃、家族で訪れた太平洋も日本海もキラキラと水が輝いていてどこまでも広かったなぁと思いながら、てくてくと歩き出した。
国道が近づくと、車の音とともに動くテールランプの灯りが私の視界に入ってきた。テールランプの放つ光はひんやりとした夜の方が綺麗に見えるのはなぜだろう。空気が澄んでいるからなのだろうか。毎年、この時期になると不思議に思う。
国道を過ぎると静かな住宅街へ入った。とても静かだ。夏だと窓を開けているおうちがあるので、テレビの音とかお皿を洗う音などの生活音も聞こえてくるのだけれど、今は窓を閉めているせいかそう言った音もあまり聞こえてはこなかった。
だんだん街灯が少なくなったため、時々自分の足元に目をやりながら、海の方向へ歩いて行った。
何にもない広い広い田んぼの真ん中の道も歩いた。
何十年も前からある大きなクスノキの横を通り過ぎた。
しばらく歩くと、また小さな街並みが見えてきた。
海の近くだと感じられる狭い路地の迷路。いつまで経っても慣れないので迷路にしか思えない路地もどこか懐かしく愛おしいと思う。
潮の香りが鼻をつつっとくすぐったのを感じた。立ち止まって目を瞑ると小さな波の音が聞こえた。
もうすぐ海だ。はやる気持ちを抑えながら堤防の階段を上った。
そこで私が見た海は遥か遠くまで続く暗闇でしかなかった。
波の音はするけれど、陽の出ていない、月も雲に隠れた空の下にある海は真っ暗だった。
こわかった。ぞくぞくっとした。これ以上近づいたら、私は波に連れていかれるのではないかと思った。黒いだけのその空間は、私の中の黒い部分、不穏な気持ちがそのまま出てきてしまっているような気もしたのだ。とにかく飲まれてはいけない。頭ではわかっていたのだけれど、私はしばらくその場から動けなかった。
姿の見えぬ波の音をどれほど聞いただろうか。知らぬ間に頬を濡らしていた涙を手で拭い、私は静かに踵を返した。
どの道をどのように歩いて家に着いたのかわからない。気が付いた時にはもう家が見えるぐらいの距離まで歩いていた。
ドアを開けて家に入る。静けさで包まれていたが、人の気配が感じられるだけで安心した。ここが私の帰ってくる場所だと思った。
身体に付きまとっていた「闇」を洗い流すように、ジャバジャバと頭のてっぺんからシャワーを浴びた。着替えて、ホットミルクを飲み、一息ついた。
寝室に入ると、ベッドで娘が穏やかな顔をして寝ていたので、手のひらをチョイっとつついたら、ぴょこっと動いた。「パブロフの犬」と言う言葉が頭に浮かび、ふふふっと笑った。
私はベッドの中へもぐりこむと、娘の柔らかい手を探し、しっかりと握った。
そして静かに目を閉じた。
おやすみなさい。
明日はまたどんな景色が見えるのだろうと思いながら。