ここ数日のうちに次々と田んぼに水が引かれた。
パイプからざばざばと白いしぶきをあげながら田んぼに流れ込んだ水は、太陽の光を反射し、あちらこちらできらきらと光り輝いた。
苗を乗せた軽トラックは平日という言葉とは不釣り合いなくらいのんびり動き、田んぼの端に寄せられて止まった。
そんな朝の風景は今の季節しか眺められない。トラックがいくつも止まり、通りづらくて不便に思うこともあるけれど、軽トラックにぎっしり積まれた苗が車の振動で縦に揺れている様を見るのは嫌いではない。
夕方。
朝、軽トラックが止まっていた辺りを通りかかると、小さな苗が整列して風に吹かれていた。もう少し時が過ぎたらこの田んぼもおたまじゃくしでいっぱいになるであろう。田んぼを横目で見た後、オレンジの光に包まれた景色を遠くまで眺めた。
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どれだけ天気が良くて、どれだけ空が澄み切っていても、なんとなくグレーがかって見える時があって、きっとそれは私の気持ちのグレーゾーンがピカピカゾーンを浸食しているのだと思っている。
同じ景色を眺めたからと言って見える色合いは人によって違うのだ。グレーに見えた私の横であなたが「明るくて良い景色ね」と言えばああ、そうなのか、ここは、明るいのかと気づいたりもする。もっとグレーグレーした気分だとそんなことも「うるさい」と感じてしまい、その後は必ず自己嫌悪のループに陥る。
私は時折、美しいものを眺めてそれが美しく感じるかどうか自分に問いかけている。
グレーがどんどん濃くなり、黒ずんでいったとしても何れ違った景色が見える日が来るとでこかで信じている。
「ひっかき絵(スクラッチ)」をご存じだろうか。
紙に様々な色のクレヨンやアクリル絵の具で色を塗り、その上を黒いクレヨンで塗りつぶす。その黒いクレヨンを先の尖ったもので削ると七色の絵が姿を現すのだ。
七色の絵が出てきたこともそうだが、この技法では「黒」が重要な役割を担っていると感じている。黒があるから色が引き立つ。黒がなければ成り立たない。
私も小学生の頃にひっかき絵を図工でやったことがあるのだが、しばらくその存在を忘れていた。思い出したのはTwitterで夕加里さんが描いたひっかき絵を見たからだ。
名もなき白花の冠
昨夜やっとあたらしく絵を描けたんだ、大切な友がこの夜を眠れるように… pic.twitter.com/RNGYmH19Lj
— 篠田夕加里 (@aosorahitotsu) April 15, 2015
いつも柔らかい色彩の少女や子どもの姿を描いてくれる夕加里さん。
素敵だなと思いながらTLを眺めている。
けれど数年前の夕加里さんはひっかき絵ばかり描いていた。あの頃のひっかき絵も訴える何かがあったと私は感じていたけれど、きっと今の夕加里さんにはあの頃の絵は描けないのではないかと私は勝手に思っている。
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このCDは春から夏にかけてなんだか無性に聞きたくなる。
渡瀬マキ「double berry」
私はリンドバーグの曲をほとんど知らないのだが、渡瀬マキのこちらのCDは明るくてちょっぴり切なくて好きだったりする。
その中でも「瑠璃色の記憶」という曲が好きだ。
瑠璃色の記憶のすみで黙ったまま明日をみてる
虹の橋 最後の色が消えるように君はたしかに少し泣いている
先日、何気なく歌詞を確認していて気がついたのだが、この曲、なんとbloodthirsty butchersの吉村秀樹さんがギターで参加しているのだ。
「HIDEKI YOSHIMURA」の表記に驚いて2度見、いや5度見ぐらいしてしまった。
音楽は残る。そして私のココロに刻まれる。