娘と息子に毎月決まった額のお小遣いを渡しているのだが、ここ最近の事情により在宅時間が長い娘に少しだけ多くお小遣いを渡した。
バイトから帰宅した息子にそのことを話した。
私「娘が家にいる時間が長いから、いつもより多くお小遣い渡したよ」
息子「そりゃ、当然でしょ」
私「……。あ、あなたは自分も欲しいとか言わんのですか!」
息子「僕はいつもとさして変わりない生活だからいらないよ」
とても息子っぽい返答だと思った。
先日、AさんとBさんにまったく同じ内容の話をすることがあった。どちらかに依頼したいことがあり、私はAさんを選んだ。もちろんAさんを選んだのだから、私にとってAさんの方が依頼したい人だったわけだが、Bさんが何か悪かったのかというとそれほどでもなく、何が決め手となったのかとしばらく考えていた。
考えた末、「私」を意識して話を聞いてくれているのがAさんだったからという結論に達した。何が言いたいかというと、Bさんは依頼した内容を今までの事例と照らし合わせてそつなくこなしてくれるだろうことは予測できたけれど、Aさんはそれとは別に「私」という依頼者を意識し、私がどんな人であり、Aさんに何をお願いしたいのかを考えてくれているのがわかった。
仕事をしていると同じような質問をされることが度々ある。私にとっては同じ質問であっても、相手にとってはただひとつの質問である。だから、こちらが勝手に「はいはい、その質問をするってことは〇〇ってことだよね」と括ることをしてはいけないと感じた。質問や事例が同じであっても、各々異なる人が考えて出した言葉であり、考えも千差万別だ。そのことを意識し、その人の最適解に近づく努力を惜しんではいけないのだと思った。
当たり前のことのようで、流れるように日々を過ごしてしまうと忘れがちになることがある。
同じ場所に咲いている花を毎日見ていると美しさを忘れるように、当たり前が当たり前でないことを私の目でもう一度確認してみたいと思った。
***
現在、発売されているちいさなかがくのとも4月号『ちょうがすきなもの知ってる?』を読んだ。たくさんの蝶と花が描かれていて眺めているだけで気持ちの良くなる絵本だった。春の柔らかい風やまだ少しひんやりとした空気とともにどうぞ。