バンビのあくび

適度にテキトーに生きたいと思っている平民のブログです。

濾過

朝晩、だいぶ冷え込むようになってきた。夜の散歩をしようと玄関のドアを開けたら、ひんやりとした空気が一瞬で私を包んだ。ひんやりとした空気はキライじゃない。なにか、背筋がピンッ!とするようで、ぼんやりとしていた頭が鮮明になるからだ。

あと1ヶ月もすればマフラーに顔を埋めて歩くようになるかもしれないな。

 

改姓したことによる手続きってこんなに大変だったのかと思い知らされている。免許証、銀行、保険、水道、ガス、電気、プロバイダ、車、携帯電話、賃貸契約なのでその会社……などなどたくさんの所へ電話をした。改姓についてはネットでの変更ができないことが多々あり、引き落とし口座の名義変更についてはそれらすべて書類が送られてきて記入、返送することを繰り返した。もはやいくつ書いたのかわからないぐらい書いている。書くだけでなく、住民票、免許証のコピー、マイナンバーが必要な場合もあり、市役所へ向かったりコンビニでコピーをした。なんだか、仕事しているみたいだなって思いながらも私は書くことが好きなので、それだけは良かった!と思った。

たくさん電話をしたことで、対応マニュアルについて考えた。最低限のことはマニュアル通りに進めると円滑に進むという当たり前のことを考えていた。だが、たまにそこから気配りのような言葉を発するオペレーターがおり、その際には「ご丁寧にありがとうございました」と伝えた。すると、オペレーターは予期せぬ言葉を告げられたかのように、しどろもどろになった。さっきまではあんなに流れるような言葉を話していたのに。そのやりとりが相手の存在を明確にした。私が話をしている同じときを過ごしている人がいて、その人は心を持ったひとであることを。

 

月に一度、参加させてもらっている「本の会」でも話したが、書店やスーパーなどで自分好みのものが並んでいたり、気持ちの良い対応をしてもらえた際には一言、気持ちを伝えるようにしている。スーパーのレジで「ありがとうございます」と声をかけるのは習慣化しており、それは偽善だと言われても続けると決めている。疲れてきたときに一言もらえると私は嬉しい。ただ、それだけのこと。

こないだ、娘がレジで「ありがとうございます」と伝えてるのをみかけた。

それだけで良いかなって思えた。


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三角みづ紀さんの『どこにでもあるケーキ』を読んだ。帯に書かれていた言葉がこの詩集の虚無感や抗えない何かと向き合う十三歳を語っている。

わたしは皆とちがう

全員がささやかにあらがう

でも完全にちがうのはこわい

『どこにでもあるケーキ』を私は最初にさらっと読んでから、二回、三回と読んでいる。とても好きなのだ。この詩集が。

この詩集にある「ロートの日」を紹介したい。

雨の日は自転車に乗れないので

仕事へ向かう父の車で

学校まで送ってもらう

 

傘を手渡されたから

ありがとう  と呟く

 

父の傘をささないまま

ざあざあ降る雨のもと

校庭をゆっくり歩く

 

この雫は

空からやってきて

したたって

地面に戻って

蒸発して

いつか  また降るだろう

 

ひとつぶ一粒が

妙にあたたかい

ありがとう  には理由がある

ごめんなさい  には理由がないときもある

 

全身に浴びたそれらへ

ごめんなさい  と呟き

 

この身体を濾過した水は

どこかへいけるだろうか

わたしも降る雨になるだろうか

ごめんなさいには理由がないときもある。

「そうだな」と思いながら、わたしも降る雨になるだろうかと考える。

 

今朝のドラマ「エール」での一場面。

落ちるところまで落ちろ。落ちた底には地面がある。まったくその通りだと、今の私は思う。

言葉では表せない、また、人にはすべてをさらけ出すことのできない痛みや悲しみと私はずっと向き合ってきた。

私は偽善者であると自覚しているので、人を恨んで暮らすようなことをしたくないばかりに自己犠牲がどうしても伴ってしまう。まずは自分を許せるようになることが必要だった。

もう、私が立っている地面が見えたからあとは顔を上げるのみ。

自分らしさを取り戻した私は羽ばたけると思う。

おそらく、隣家の屋根ぐらいは軽々と越えられるんじゃないかな。

 

 

どこにでもあるケーキ

どこにでもあるケーキ