過ごしやすい夜だと感じる日が多くなった。
こないだまでたくさんの洗濯物を干していた向かいの部屋から洗濯物が消えたと思ったら、雨戸が閉まっていた。どうやら引っ越したらしい。今時のアパート住まいは入居や退去の際に挨拶をすることはないので、気づいたときには新しい人がやってきて、また、気づいたときには誰かがいなくなっている。
名前も知らない誰かは、それでも階段や通路で会えば挨拶をする。ごみ捨て時にかち合えば、蓋を開けていてくれたりする。
未だにかさぶたが出来そうにもない傷があり、深く人と関わるのは少し怖く思うので、これくらいのふれあいは程よいと思う。
ただ目の前にいる人と、今、この時間を柔らかく過ごしたいだけのやりとり。
ささやかなとき。
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『たやさない』を読んだ。続けることの難しさを感じたけれど、私はどちらかというと何事も先々まで考えてしまい、なかなか始めることが出来ない自分をどうにかしたいと思っているので、そういった本があれば読んでみたいと思った。
「我慢強い」
「粘り強い」
「ガッツがある(もはや死語)」
「頑張るのが良いところ」
それらの言葉をずっと通知表に書かれるような子どもだった。秀でて頭が良いわけでもなく、そのほとんどを努力でカバーしていると言われてきた。努力には限界があり、報われないことも多かったし、それらの言葉が、ほめことばであるのか疑った。素直に受けとるようなことはなかった。
もっとすべての事柄を素直に受け取れたらどれほど楽だっただろうかと考えることがある。
こうやって考えてしまう時点で素直ではないのかも知れないが。
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母から梨が届いたので電話をしたら、話中だった。後から電話がきて、さっきは私が幼稚園に通っていた時の園長先生(教会附属の幼稚園だったので牧師)と電話をしていたと母は言った。
「えこちゃんは面白い子だったって話しててね、あなた、面白かったのかしら?」
母に問われ、私は面白かったのだろうかと考えた。
記憶としてあるのは私は少し風変わりな、おとなの人と話すのが好きだった。一般受けをするタイプの子どもではなかったが、一癖ある大人からは気に入られることが多かった。話すのが面白いと言われた。
あのとき話していたようなことを、今、話すことが出来れば面白い人になれるだろうか。
そもそも目指すところが面白い人ではないので、すべてが、どうでもよい話なのかもしれない。