バンビのあくび

適度にテキトーに生きたいと思っている平民のブログです。

丁寧な暮らし

かつて私を傷つけたひとが夢に出てきた。その夢の設定は一緒にお茶をし他愛もない話をする休日の午後であった。陽射しは柔らかく相手の表情も穏やかだった。私も居心地の良さを感じ、こんな日が長く続けばいいと願ったあたりで目が覚めた。

目からこぼれ落ちる涙にぞっとした。これだけ傷つけられた相手に夢の中であれど、長く続けばいいと思った自分が怖かった。しばらく思考の整理ができずぼんやりと天井を眺めた。窓の外から聞こえてくる誰かの話声と車の音、生活をしているあらゆる音が私を現実に誘う。夢と現実がはっきりと理解できた時点で、ああ、やっとそんな夢が見られるようになったのだなと思った。

かつて、そのひとから刺される夢を数か月間見続けた。起きている時も寝ている時も気が抜けず頭がおかしくなりそうだった。実際におかしくなっていたのだと思う。支えようとしてくれたひとも去っていったし、多くのひとに迷惑をかけたと今になってはわかる。ただ渦中にいたときに周囲への配慮ができる精神状態であったかと問われればノーと言い切れる。子どもを守ること、なんとか生活をすることだけを考えた。今日をやりすごし、明日がくれば成功だった。一日を生きることはなんて精神力と体力か試されることなのだろうと毎日泣いた。この立場にならなければ理解できなかったであろうことを知り、今まで知ったような顔をしていた自分にも腹を立てたし、時が解決するなんて甘っちょろい考えを他人が軽々しく口にするなと憤った。

歯を食いしばって生きることの意味ってあるのだろうかと考えた日もあったが、何年かかったとしても終わりが見えそうな事柄には微かな光があった。

終わりが見えないことほど苦しいことはない。いつまで頑張れば良いのかわからなくなり、感情をひとつひとつなくしていく。まずは「楽」次は「喜」その次は「怒」最後に残るのは「哀」だった。感情かなくて人間と名乗っていいのかと植物に語りかけるくらいにまでは追いつめられた。

それほどの苦しみを私にもたらした相手が夢に登場し、しかも楽しいひとときを過ごすなんてありえなすぎて恐怖だったのだ。

けれど今のわたしには、それらは道に落ちていたガムを踏みつけて靴の裏にへばりついた苦苦しさ程度のものだった。それに気がつけただけでまた明日がやってくることに少しだけ期待できるだろう。

 

「丁寧な暮らし」ということばある。ひとによって捉え方が違うこのことばは、自然と一体になることを指すひともあれば、家事を丁寧にこなすことを指すひともある。

私にとっての「丁寧な暮らし」とは、自身の怒りや哀しみに折り合いをつけ、少しでも明日が心待ちになるように単調な日々に向き合うことだ。私が喜べるように美味しいものを作ることもそのひとつであり、ほとんどは私のエゴである。誰かを喜ばせているようで私自身を喜ばせる。つまるところ、それがいちばん心穏やかに多くの優しさを運んでくるようにおもう。 

 


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