嫌いではなく、どちらかと言えば好きなのに、どう接して良いかわからないひとがいる。どうみても、よいひとで、だからこそ、上手く接することができない自分の心の狭さに辟易する。
けれど、そのひとをすべて受け入れることは、傷ついた私を見ないことにするようでそれが私は嫌なのだと思う。
いつも私自身が嫌になり、それでも私を大事にしたいと思い、迷いながらさらに傷ついている。
そのひとを見るだけで傷つく自分が嫌だ。とても心が狭いと思う。でもどうすることもできなくて、今日も作り笑いを浮かべている。
最近読んだ本。
寺尾紗穂『天使日記』
私は紗穂さんの「彗星の孤独」という本に感銘を受けたのだが、こちらも紗穂さんの好奇心と視野と懐の深さを思う存分堪能できる。天使、戦争、山姥、歌、出会う人々etc…。
どこまでも自由に羽をのばしていく紗穂さんが見えるようだった。
先日、紗穂さんに私が作った栞を郵送した。届いたとの連絡とともに、次にライブへ行くときはお声がけ下さいとの一文があった。次にお会いするときは、躊躇わず声をかけようと思う。そして、人と人の言葉を交わしたい。
ファン・ジョンウン『年年歳歳』
戦争により、辛い体験をした母とそんな母の苦労は知らない娘や家族の話と言えば良いだろうか。本当はそんな説明では足りないくらい迫ってくる苦しさがあった。
ファン・ジョンウンの本を読むと誰かとこの本について話がしたくなる。それこそ読書会が良いかも知れない。あなたはこの話の何が引っかかりましたか?と尋ねたい。
母親は自分と同じ思いをさせまいと子ども達に先回りして厳しくしがちだと思う。
私の場合は祖母だった。祖母は兄には何も言わないが、女である私のしつけは厳しかった。しつけというか幼い私には男女差別としか受け取れなかった。嫌いにはならないけれど、祖母がいる家に帰りたくないと思ったことはある。それでも祖母が先は長くないと連絡を受けたとき、迷わず息子を連れて実家に帰った。付き添う母の手助けを兼ねて家事をした。祖母に孫を見せたいとも思った。その気持ちは偽りではなく、私は祖母の寂しさを感じ取っていたのかもしれない。祖母の死後、それも最近になってから祖母のあたりがきつかったと母に思い出話のように話していたとき、「あの人は最初に嫁いだ先の家で酷い目にあったようでね、それであなたに厳しくしてた部分があると思うよ」と言われた。
「おばあちゃんがどんな思いを抱いていようとも、私に辛くあたる理由にはならない」
即座にそういった私の言葉は、正論であるのかも知れないけれど、母は悲しい表情をしていた。心は複雑で、目の前にいる人の心すら読み取ることなどできないのだ。
『大邱の夜、ソウルの夜』
グラフィックノベル(マンガのような感じ)。
読みたいと思いながら、後回しにしていだけれど、心がぐちゃぐちゃになった。
特に「大邱の夜」の子どもが産まれてから内に秘めていた不満、焦り、辛さが幾つも幾つもことばになっている場面。
たくさんのセリフ、1ページが文字で埋め尽くされているのに、書かれている感情はすべてと言ってよいほど、私が当時抱いた感情そのものだった。子どもが泣き止まなくて私も泣きながら抱っこし、子どもの声がうるさいから黙らせれと言われ、子どもが上手くできないことはすべて母親である私のせい……。
私は今までどうやって生きてきたのだろうと何度も自身に問いかけた。今までは出来ないことでも努力でカバーしてきたけれど、どれだけ努力しても子どもは泣き止まない。それなら私にどうしろと言うのだろう。疑問と不満と子どもとともに消えてしまいたいと思ったりもした。育児は母親を孤独にさせる。そんなお母さんを見かけたら私は声をかけ続けたい。
最近観た映画。
『ツユクサ』
小林聡美主演で松重豊とのラブストーリーも含んでいる伊豆の物語。
大人のラブストーリーもよかったけれど、小林聡美演じる芙美の歳の離れた友だち、小学生である航平くんの心の動きが丁寧に描かれているのが良かった。親の再婚により、心の置き場に迷っている航平くんに芙美さんのような親以外の歳の離れた大人の存在は大きいと思う。
しなやかで強かな芙美さんのように私もなりたい。痛みさえとりのぞけば頑張れると話す芙美さんのようになりたい。
揺れるこころを鎮めるように、私は今日も本を読み、音楽をきく。
私には五感があるから、心にだけ引っ張られてはいけない。
安藤裕子 / ぼくらが旅に出る理由(from LIVE DVD「秋の大演奏会」) - YouTube
豪華メンバー!
池ちゃんの存在がホッとさせてくれる。