息子は「石橋を叩いて叩いて、それでも不安でちょっと戻って、更に叩いて渡る」ような性格だった。
年齢とともにだいぶ緩和されてきて、今は「石橋を叩いて渡る」ぐらいにはなったと思う。
新しいことにチャレンジする時はびっくりするほど慎重だったし、新しい場所になんて行こうものなら不安がっているのが目に見えてわかった。
保育園で粘土の時間があった日。先生にこう言われた。
「**くん、粘土を前にして全然動かなかったんです。その後、友達がこねているのを見て少し触り始め、終わる時間が近づいた頃になってやっと捏ねはじめたんですよ」
それほど慎重だった。周りの子がしているのを見てやっと「触っても大丈夫」と思ったのであろう。
いつもそんな感じだったので、大抵、他の子よりワンテンポ遅く動く。
中耳炎になり、耳鼻科へ行った時。
「ここ、何をするところ?」
「耳や鼻の病院だから先生に診てもらうの」
「それ、痛い?何するの?ボクどうなる?」
不安と恐怖でそわそわしながら、質問を繰り返してくる。
そこで、私は何をする時も事前に出来るだけ説明をするようにした。
「これからやることは、~のために必要だからやります」
「明日行く場所は△△をするために行きます。そこでは〇〇をします」
すると、今まではその場所に着いてからソワソワしていた息子が少しだけ落ち着いているようにみえた。
何をするためにココにいるのか?
先が見えていることは少なからず安心感を与えたようだった。
そこから現在に至るまで、出来るだけ私がする行動の意味を子ども達に説明するようにしている。
先日書いたこちらの記事で私がしていることは、それの延長線上だ。
娘、息子、それぞれに今、私がしている事の説明をする。
私も出来た親ではないので、理不尽な行動や言動をすることがある。
当然ながら子ども達は説明を求めてくる。
子ども達を何とか黙らせようと思い、一生懸命説明を続けるも理不尽なことなので辻褄が合わなくなっている。
そんな時は「ごめん。私が悪かったと思う」と伝える。
もうギブアップ。親は偉くもなんともない。
大人だって間違うことがたくさんあるのだ。
私自身、「間違っている時は謝る」という当たり前のことができて少しラクになる。
そんな風に毎日を過ごしている。
これを続けていて思わぬ副産物があった。
息子がする説明がわかりやすいのだ。
子どもは私よりも語彙が少ない。その限られた語彙の中で、自分の事を説明する時に上手く大人に伝わらないことだってある。
そんな中でも息子の説明は比較的わかりやすいと思っている。
今、娘が「お母さん、あのね・・」と色んな説明をしてくれるのだが、パズルのように言葉が散らばっていて理解するのに時間がかかる。なんとかパズルを組み立て、更に頭をグルグルと回し「ああ、そういうことか!」とやっと理解する。
だが、その頃になると、なかなか自分の思いが伝わらない娘の苛立ちが大きくなり、怒りながら「もう、いいっ!」と言われることが多々ある。
苛立つのはわかるが、出来るだけ「私はあなたが言っていることをこれぐらいは理解しました」と伝えるようにはしている。
娘ももう少し大きくなり、語彙も増えればもっとわかりやすく私に伝えてくれるかも知れない。
そうなることを願って、私もまた出来るだけ説明をするように心がけるのだ。
***
今日の朝、ニュースで「EU」という文字をみた息子にヨーロッパ連合の説明、さらにベルリンの壁やソ連崩壊の話をうっすらとした。
あくまでも「うっすら」だ。
私にそれを語れるほど知識がなかったので、そんなコトももう少しちゃんと説明できるようにしなければいけないなぁと思った。